Tuesday, June 17, 2008

生きている心・死んでいる心 小確幸

Oscar Wilde (オスカー・ワイルド)は、かつて、

“To live is the rarest thing in the world. Most people just exist, that is all.”
(生きるとはこの世で最もまれなことである。ほとんどの人間はただ存在しているに過ぎない)

と看破しました。

僕も、オスカー・ワイルドのようなクリスプ(crisp)な至言をひょいと思いつければいいのだけれど、なかなかそうはいかない。でも、パタパタとキーボードを叩きながらブログを書くのは、僕にとっては、とても愉しい作業です。最近は、携帯からmixiへ、元気のない近況報告ばかりだったけれど。

6月11日は、一日お休みをもらいました。地元の友達の女の子と、遅いランチを食べて(ミックスピザとクリームソースのパスタ。美味しかった)、florestaっていう神戸のトアロード沿いにあるドーナツ屋さんで、びっくりするくらい美味しいドーナツを食べました。( http://www.floresta.jp/ )温かく優しい味で、とても幸福な気持ちになりました。その後、大切な人に手紙を書くために、手漉きの和紙の封筒と便箋を買いました。結構な値段がしたけれど、こういうものにお金をかけるのもささやかな幸せです。

ほとんどの人間は、存在しているだけなのかもしれない。でも、キャンバスに描かれた小さな黄色の点のように、小さくても確実な幸せ(村上春樹の至言「小確幸」)を日常に見出すことができれば、ただ存在しているだけでも幸福でいられるかもしれない。ゴッホの『ひまわり』のような、強烈な黄色で「生きる」ことがなくても。

茨木のり子の詩に、『生きているもの・死んでいるもの』という作品があります。

生きている林檎 死んでいる林檎
それをどうして区別しよう
籠をさげて 明るい店先に立って

生きている料理 死んでいる料理
それをどうして味分けよう
ろばたで 峠で レストランで

生きている心 死んでいる心
それをどうして聴きわけよう
はばたく気配や 深い沈黙 ひびかぬ暗さを

生きている心 死んでいる心
それをどうしてつきとめよう
二人が仲良く酔いどれて もつれていくのを

生きている国 死んでいる国
それをどうして見破ろう
似たりよったりの虐殺の今日から

生きているもの 死んでいるもの
ふたつは寄り添い 一緒に並ぶ
いつでも どこででも 姿をくらまし


村上春樹は、『ノルウェイの森』の前身となった短編小説『蛍』でこう書いています。

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」

村上春樹は、この文章を、物理的な意味での人間の生死について書いているのだけれど、この、ひとつの文章は、人の「心」の生き死にについても適用できるように思います。

つまり

「死んでいる心は生きている心の対極としてではなく、その一部として存在している…」

このとき、茨木のり子の詩は、切実さを持って眼前に現れてきます。

生きている心と死んでいる心とは、紙一重のところにある。僕には、それがよく分かります。

オスカー・ワイルドの言葉は、ウィッティー(witty)で耳に心地よいかもしれないけれど、その解釈には、多分に慎重になる必要があるように思います。多くの人が、ささやかな幸福をも見出せず、「死んだ心」を抱えたまま、「存在している」のかもしれない。けれども、大仰に「生きる」ことなく、日々のささやかな幸福を大切に守りながら「生きている心」を享受する人生は、「存在している」のだろうか、それとも「生きている」のだろうか。

ひょっとしたら、オスカー・ワイルドは、多くの人にとって、日常を充実させるような小さな幸福を見出すことが困難であること、そして、ほとんどの人間の心がふとしたことで死んでしまう可能性があること、それによって人間の生が「存在」へと堕落するという人間存在の脆弱さにも気づいていたのかもしれない。

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