Monday, July 11, 2011

黒澤明 『影武者』 映画評



 壮大で迫力ある映像に圧倒される。力強い脚本に呑み込まれる。そして何より、一人の男の演じる「影武者」としての生の儚さに、哀しくなり、同時に心を寄せられる。

 武田信玄亡き後に、信玄の影武者を演じるのは、元盗人。小銭を盗んで磔になるところを、信玄の顔にそっくりだというので、命を助けられ、武田家に連れて来られたのだ。

 影武者は、正体を暴かれないこと、「ほんとうの」自分を極限まで無化することだけが仕事だ。正体がばれてしまえば、用済みだ。偉大なる信玄の亡霊は、彼が生きる唯一のよすがであり、同時に彼をいつでも殺してしまう。彼は、信玄の実の孫を溺愛するようになり、羽目を外した途端、正体を暴かれ、何もかもを捨ててしまうことになる。

 誰にも愛されることがない人間にとっては、「ほんとうの」自分を隠し通すことは、唯一の生きる術ではある。しかし、程度の差こそあれ、私たちは日々、ある意味で自分を無化しつつ、役割を演じながら生きているのだから、そして、私たちも、そうした中でも、少数の気の置けない人との時間を愉しみ、やがて儚くも何もかもが終わってしまうのだから、「影武者」とは私たちでもあるのだ。

 黒澤は、豪胆で魅力ある武人たちを、無数の騎馬を、迫力いっぱいに画面の中で躍らせたが、その前景にいるのは、私たちのような、平凡で、ある意味哀しい生を精一杯生きる、一人の人間なのだ。

Monday, July 04, 2011

村上春樹 『はじめての文学』 書評


 
 タイトルの『はじめての文学』が示しているように、これは、村上氏が、これまで書きためてきた短編を、主に年少者に向けて選び、適宜加筆修正を行ってまとめたものです。

 もっとも、彼は児童文学の作家ではないから、初めから年少者を念頭に書かれた作品は、冒頭の『シドニーのグリーン・ストリート』だけで、後は全て大人の読者に向けて書かれた作品です。

 僕は、彼の小説、短編は全て読んでいますが、特に短編では筋を忘れていたものも多く、肩肘張らない読書の愉悦に浸ることができました。

 この作品集の中では、『踊る小人』と『かえるくん、東京を救う』に胸を締め付けられるような思いをさせられました。両作品とも、非力だけれども、必死に生きる人間が、ときに直面する、あるいは包囲されうる、世界に確かに存在する激しい暴力性をグロテスクに描いています。それは、氏がこれまでも何度も描いてきたテーマですが、村上氏が、「年少者に向けて」これらの作品をも選定したのは、設定が取っ付きやすいだろうという目論見に加え、物語という虚構を通して、現実の世界のすばらしいことも恐ろしいことも語ってみせよう、それが文学というものなのだからとの思いからでしょうか。

 気軽なプレゼントとしても最適な一冊だと思います。

Sunday, July 03, 2011

高橋秀実 『やせれば美人』 書評





著者と、著者の奥さんとの二人三脚でのダイエット奮闘記。思わずふきだしてしまうような可笑しさ、ほんとうは全然やる気がない奥さんへの温かい眼差しと深い愛情、そしてノンフィクション作家としての、手の込んだ下調べ、たくさんの女性への入念な取材と観察眼、すべてが渾然一体となって、極上のエッセイに仕上がっています。とても丁寧に書かれている本ですが、あくまで軽いエッセイ。読み出したら、きっと一気に読みきってしまうと思います。