Monday, April 25, 2011

ヘルマン・ヘッセ 『シッダールタ』 (岡田朝雄訳) 書評


 本書の主人公、シッダールタは、仏陀、釈尊とは別人物である。ヘッセによる『シッダールタ』は、釈尊と同名のシッダールタという人物が、釈尊に出会いながらも、彼の教え(あるいは特定の教え)を受けることを選ばず、さまざまな体験を生き抜く中で、やがて、釈尊を超越するほどの仏陀(悟りを開いた者)の境地に至るまでの物語である。

 これが、世界文学の傑作であることは、間違いない。私は、この小説は、私たちの人生についての、ほとんど全てのことを語っているのではないかとすら思った。迷える求道者シッダールタは、幼い頃から信仰への造詣が深く、高い志と知識だけは持ち合わせている。それでも内なる不安は拭い切れず、自らに厳しい苦行を課す。苦行によっては心の平安を得られぬことを悟ったシッダールタはやがて、面白いことに、俗世間を体験することを選ぶ。彼は俗世で、性愛の快楽を覚え、財産や権力を手に入れ、酒を飲み博打に興じ、中年に差し掛かったころに、それら一切の虚しさを痛感し、愕然とする。絶望し、自殺まで企てた彼に偶然射した光は、「オーム」(完全)という若かりし頃に諳んじていた語であった。これが悟りへの契機であった。美しい河の畔にいた彼は、その河の渡し守の弟子になり、共に労働し、河の流れに耳を澄ました。その間、偶然出会った息子への愛が叶わぬという悲劇も体験した。彼は、何もかもを体験し、なお、河のせせらぎに耳を澄ませた。それが彼の最後の修行であった。老年に差し掛かる頃には、彼は、宇宙との一体感、時間の無時間性すらを体験する境地にあった。

 この作品が、文学として普遍的な価値を持ちうるのは、1つに、俗世間で生きる私のような凡人が日々心を砕き、しかしながら仏教修行にあっては詰まらぬとされる、さまざまな人生の些事を、主人公シッダールタは満腹し嘔吐するほどまでに味わいつくし、その虚しさに絶望するという体験を経ているからである。そして、彼は、経典でも人の意見でもなく、自らの体験と他者の縁を頼りにこそ、自らの内面と自然の語る声に耳を澄まし、宇宙の法則に逆らわぬことを学び、やがて、宇宙の一切、俗世の些事をも包み込み愛する悟りの境地、精神の高みに到達するからである。

 ドイツ語の原文を味わうことは残念ながら私にはできないが、訳文は、初めから日本語で書かれた美しい詩のような、凛とした文体だ。扱う素材の深みと重みを格調高く表現し、かつとても読みやすい訳文だ。ヘッセの愛した、自然の美しさと恵みの賛歌のようにも感じられる。訳者の仕事にも感謝したい。


Sunday, April 24, 2011

大平健 『診療室にきた赤ずきん 物語療法の世界』 書評

 
 長く語り継がれる、誰もが知るお話というのは不思議なものだ。僕たちは、桃から生まれたわけではないし、カボチャが馬車に化けることは絶対ないのを知っている。オオカミは人間のことばを話さないし、亀は人間に恩返しをしたりしない。それなのに、僕たちは、それらの現実離れした物語を読み、愉しみ、時代を超えて語ってきたのだから。そうであるなら、それらのお話は、人生について本質的な何かを、「物語という形でしか語れない何か」を、語っているに違いないと考えるのが自然だ。

 著者は精神科医で、患者との面接でしばしばそうしたお話を提示する。そうすると、熟練した精神科医だからであろうか、実に患者の人生が、お話の文脈と符合することが多いのだ。具体的な事例は本書を読んでいただくとするが、著者が、多くの物語の中で、食べ物(を与えること)が愛(を与えること)の象徴として表れていることを指摘していることだけ触れておこう。(これは、間違いなく人生の真実に触れている。)

 僕たちは、眠ると夢を見る。その夢は、日常の論理ではまったく歯が立たない物語だ。もちろん、僕たちが昔から愉しんできたお話も同様、日常の論理の外にある。とは言っても、僕たちは皆、ある意味「物語」を生きていて(だから、僕たちは夢を見るし、人生はしばしば物語に喩えられるのだ)、その物語の文法・解釈のヒントが、夢と同様に、長く語られてきたお話に隠されていることがある。一流の精神科医、精神分析家、カウンセラーは、そうしたお話が、深いレベルで人生の真実に触れていることを示すことができる。河合隼雄氏の著作もそうであったが、本書もその好例だ。



Sunday, April 17, 2011

フォークナー『熊』 書評 William C. Faulkner "The Bear"


 表題の中篇『熊』に加え、登場人物等関連した3作の短篇を所収する。

 本書の中心を成す作品『熊』は、伝説となった大熊を狩る物語である。アイザックと名づけられた主人公の少年は、10の歳から大人の狩人の仲間入りをし、サムと名づけられた黒人男性に導かれながら、数年で森を知悉するようになる。仲間の男たち、犬たちと勇猛に熊を追い、最後は仕留める。その描写はスリリングで、その物語自体、果敢な男たちの1個の英雄譚である。

 だが、この小説は、逆説的にも、その熊狩りが、悠久の森の深遠さに飲み込まれ、融け込んでほとんど無化してしまうことをこそ描いているのだ。森が悠久であるとはつまり、脈々とほとんど無限に連なる死者に包まれてこそ彼らがいるということであり、死者とは森そのものである。死者の具現である太古の森は、登場人物を包み、駆動し、護り、慰撫する。そして、この物語は、その悠久の森における、火花のような一瞬のドラマなのだ。英雄譚を装いながら―「装う」という語は適切でない。じじつ、息を呑むような筆力でその英雄譚は雄弁に語られるのだから―、超越的な死者=森の前にあって、生者は圧倒的に無力に見える。そもそも、彼らは、なぜ命懸けで熊を殺すのか一見明確でない。主人公の少年は、熊を見る前から、空想ですっかり熊のことを想起できたとはいえ、銃を持たずに森に在って初めて、熊と出会うことができる。熊は銃を持たぬ少年を襲うことはない。それはあたかも、他者との出会いのようだ。そして、彼らが熊を仕留めるのは、いわば肉弾戦だ。結局熊を殺したのは少年ではなく、少年の仲間の男と犬たちだ。少年は、熊を傷つけることはない。熊が死ぬとき、時を同じくして、少年を大人の狩人へと育て上げた黒人老人サムも死ぬ。少年は、熊狩りを通して、真の意味で死者と出会う。それは、幼い頃から空想を重ねていた夢の死であり、憧れの、成熟した大人の死であった。この「通過儀礼」を通してこそ、少年は、森=死者の世界に融け込む。その中で生き、護られ、やがて回収されることになる世界だ。熊とは、その超越的な死者の世界に、主人公の少年アイザックを出会わせる媒介項であったのだ。

Tuesday, April 12, 2011

末木文美士 『仏教 vs. 倫理』 書評―というより多少の雑感


 私は父を14歳の初夏に亡くした。子煩悩で短気な父であった。実の父であり、育ての父であるのだから、(ことばにならないものも含めて)思うところはさまざまにあるのだが、こうやって何かを書こうとすると、躊躇せざるを得ないことに思い当たった。これは、私にとって、大きな発見だ。なぜか。


私は、信仰をもたない人間である。訊かれれば”agnostic”(不可知論者)と答えなくもないが、無神論だと言ってもさほど自分の思想と齟齬があるようには思われない。ただ、そうは言っても、親しい誰かを亡くしたときに悼み、時折死者を思い出さぬほどに血の通わぬ人間だというわけではない。死者には敬意を払い、思いを馳せ、ときに畏れることもある。いくら無宗教を自認している人間であろうと、この感覚は共有していると思う。これは、宗教が扱う根源的な問題だ。もっとも私はそれを、人間の原初的で原始的な本能か何かだと捉え、宗教のように体系的に整理して考えてこなかっただけだ。

この本を読んで一番はっとしたのは、(著者には失礼であるかもしれないが)『死と狂気』という、渡辺哲夫という精神病理学者の著作を引いた箇所であった。渡辺は、重篤な統合失調症の患者が、死者を死者として引き受けられていないことを指摘している。それはつまり、彼らは、死体を知覚するのではあるけれども、他者としての死者に出会っていない。そこに狂気が生じるというのだ。渡辺は言う。「記憶としての死者と存在する死者を二種の異なった考え方として同じ次元に並置することなどできない。死者の存在、存在する死者こそ絶対的かつ先行的な事態なのである」(本書p.192, 渡辺p.79

この箇所を読むまで、私は漠然と死者とは生者の記憶の中にこそ生きるものであると感じていた。しかし、おそらくそれは誤りだ。冒頭、私は亡くなった父のことを書こうとして、複雑に入り組んだ個人的な思いを、インターネットで公開することをためらった。それは、私に父の記憶があるからではなくて、死者としての父が「他者として存在している」からだ。父は死者であり、現前しない、何も語らぬ存在である「にも拘わらず」、行為しようとする私に、「おれを冒瀆するな」と言わんばかりに、他者として私に対峙していたのだ。私が生きているうちに出会ってきた、あるいはこれから出会う他者と同じように、父を含めた死者は私の生において他者として存在し続ける。そして、私が死ねば、同様、私は死者という物言わぬ究極の他者として、私にとっての他者の他者になるに違いない。それは、渡辺の言うように、生者の記憶とは別の地平における存在なのだ。

死者は、生者を超越した「場」に存在する。こう考えれば、生者が生きる世界の構造―言語を含め、そのほとんどは無数の死者からの時を超えた贈り物だ―のいくつかに良い説明が与えられそうだ。その1つが、生まれる前の世代の戦争や虐殺の責任だ。世代を超えてわれわれに重く圧し掛かってくる責任を払い除けられることができない端的な原因は、死者が鎮魂されないままに「存在している」からだ。




Monday, April 04, 2011

ひろさちや『なぜ人間には宗教が必要なのか』書評


 著者は仏教徒であり、仏教に関する本格的な専門書も出しているが、一般読者向けの仏教の平易な入門書でよく知られている。

 本書は、仏教だけではなく、ユダヤ教、キリスト教、神道についても述べられている。

 僕がこの本を手にとったのは、ブック・オフ。ちょうど、アメリカのJohn Updikeという小説家の、イスラム教徒の青年を主人公にする"Terrorist"という作品の中での、クルアーンや旧約聖書に触れた箇所で難渋していたのがきっかけだった。

 著者が述べるように、日本人の多くは「宗教音痴」だと思う。たとえば、上の小説で、主人公のイスラム教徒の青年は、どうしても気になる女の子が教会で賛美歌を歌うというので、自分を抑えられずに教会に行ってしまうのだが、そこで牧師が旧約聖書に触れた説教をする。旧約聖書は、ユダヤ教・キリスト教のみならずイスラム教にとっても聖典であり、主人公は図らずもこの牧師の説教と、聴衆の昂揚に飲まれてしまうのだが、その場面ひとつとっても、世界宗教の常識を知らないとどうしてもピンと来ない。僕もそういう知識がずいぶん欠けていることを、思い知らされている。

 一神教の信者にとって、「神の命令に対して『なぜ』と問うこと自体が、神に対する反抗になる」。あるいは、「仏様は、(人知の及ばない仕方で)デタラメに救われる」など、信仰の本質的なことでさえ、日本人の多くには馴染みが薄い。

 本書は、そうした、世界宗教についてのごくごく基本的な知識を、まるで法事のときのお坊さんのように、誰にでもわかるように平易に解説してくれている。すぐに読めるし、分かりやすい。愉しくためになる読書だった。著者に感謝したいと思う。

 この数年、仏教の思想にはずっと惹かれているのだが、自分の信仰だと胸を張れるほどに、具体的な行為を実践しているわけでも、教義を学んでいるわけでもない。ただ、悩んだり、生きるのが苦しかったりするとき、ふと立ち止まって内面と静かに対話をするとき、自分を超えた、あるいは現世を超えた超越的な何かが気にかかることは、ここ最近ある。そして、それを説明する理論として、(一字一句というわけではないが)仏教の教義は、僕のこれまで生きてきた思想と親和性があることは間違いない。

 仏教については、自分が少しでも善く生きていくよすがとできればと思っている。