Monday, June 30, 2008

「物語」・物語の話

自分を取り巻く世界が、恣意的な物語ではないかと感じるときがある。

偶有性に満ちた歴史的な文脈の中で、人間はさまざまな「物語」を生み出してきた。神が世界を創造したという聖書。何人もがコモン・センスをもち、政治的権力を行使し得るという民主主義。「見えざる手」があるという思想の下、資本家が労働者を商品として購入することで無限の利潤拡大が可能であるという資本主義。その他、さまざまな社会的慣習。 これらの「物語」は、人間の、(「無意識」ではなく)表層的な理性にその基礎を置く。創世記は、世界の成り立ちについて説明せんと欲する人間の理性によって創られた。民主主義は、人間が理性的存在であることを前提としている。資本主義は、理性から発生する、後天的な欲求である、利潤の拡大を目指している。社会的慣習は、多くの場合、これらの「大きな物語」に付随して、各々の社会が生み出した偶有的な産物である。

理性によって編まれたこれらの「物語」は、しかしながら、フロイトのいう人間の「無意識」をも、統御し、規定する。その「無意識」の統御や規定が蹉跌したり、人がそこからの逸脱行為を求めようとする場合に、鬱をはじめとする所謂「精神病」が起こるのではないだろうか。そして、ミシェル・フーコーが『狂気の歴史』で喝破したように、近代においては、「一方には理性の人が存在し、狂人にむかって医師を派遣し、病気という抽象的な普遍性をとおしてしか関係を認めない」。

こうした、社会学的な意味合いにおいての「物語」に加え、作家の生み出す、字義通りの物語がある。優れた物語もまた、人間の「無意識」を揺さぶる。物語を読んで得られた深い感動の理由をことばにするのにしばしば困難を感じるときがあるが、それは、われわれにとって、「無意識」を語ることが困難であるせいではないだろうか。その意味で、「無意識」という井戸で物語を紡ぐ作家は、稀有な存在だ。

こうした関心から、今、ジョーゼフ・キャンベルの『神話の力』を読んでいる。「物語」あるいは物語は、人間の内面にどう働きかけているのか。あるいは、なぜ、人間は、「物語」あるいは物語を生み出し、そのことによって内的世界の変更を自らに迫るのか。それが知りたいと思う。

Tuesday, June 17, 2008

生きている心・死んでいる心 小確幸

Oscar Wilde (オスカー・ワイルド)は、かつて、

“To live is the rarest thing in the world. Most people just exist, that is all.”
(生きるとはこの世で最もまれなことである。ほとんどの人間はただ存在しているに過ぎない)

と看破しました。

僕も、オスカー・ワイルドのようなクリスプ(crisp)な至言をひょいと思いつければいいのだけれど、なかなかそうはいかない。でも、パタパタとキーボードを叩きながらブログを書くのは、僕にとっては、とても愉しい作業です。最近は、携帯からmixiへ、元気のない近況報告ばかりだったけれど。

6月11日は、一日お休みをもらいました。地元の友達の女の子と、遅いランチを食べて(ミックスピザとクリームソースのパスタ。美味しかった)、florestaっていう神戸のトアロード沿いにあるドーナツ屋さんで、びっくりするくらい美味しいドーナツを食べました。( http://www.floresta.jp/ )温かく優しい味で、とても幸福な気持ちになりました。その後、大切な人に手紙を書くために、手漉きの和紙の封筒と便箋を買いました。結構な値段がしたけれど、こういうものにお金をかけるのもささやかな幸せです。

ほとんどの人間は、存在しているだけなのかもしれない。でも、キャンバスに描かれた小さな黄色の点のように、小さくても確実な幸せ(村上春樹の至言「小確幸」)を日常に見出すことができれば、ただ存在しているだけでも幸福でいられるかもしれない。ゴッホの『ひまわり』のような、強烈な黄色で「生きる」ことがなくても。

茨木のり子の詩に、『生きているもの・死んでいるもの』という作品があります。

生きている林檎 死んでいる林檎
それをどうして区別しよう
籠をさげて 明るい店先に立って

生きている料理 死んでいる料理
それをどうして味分けよう
ろばたで 峠で レストランで

生きている心 死んでいる心
それをどうして聴きわけよう
はばたく気配や 深い沈黙 ひびかぬ暗さを

生きている心 死んでいる心
それをどうしてつきとめよう
二人が仲良く酔いどれて もつれていくのを

生きている国 死んでいる国
それをどうして見破ろう
似たりよったりの虐殺の今日から

生きているもの 死んでいるもの
ふたつは寄り添い 一緒に並ぶ
いつでも どこででも 姿をくらまし


村上春樹は、『ノルウェイの森』の前身となった短編小説『蛍』でこう書いています。

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」

村上春樹は、この文章を、物理的な意味での人間の生死について書いているのだけれど、この、ひとつの文章は、人の「心」の生き死にについても適用できるように思います。

つまり

「死んでいる心は生きている心の対極としてではなく、その一部として存在している…」

このとき、茨木のり子の詩は、切実さを持って眼前に現れてきます。

生きている心と死んでいる心とは、紙一重のところにある。僕には、それがよく分かります。

オスカー・ワイルドの言葉は、ウィッティー(witty)で耳に心地よいかもしれないけれど、その解釈には、多分に慎重になる必要があるように思います。多くの人が、ささやかな幸福をも見出せず、「死んだ心」を抱えたまま、「存在している」のかもしれない。けれども、大仰に「生きる」ことなく、日々のささやかな幸福を大切に守りながら「生きている心」を享受する人生は、「存在している」のだろうか、それとも「生きている」のだろうか。

ひょっとしたら、オスカー・ワイルドは、多くの人にとって、日常を充実させるような小さな幸福を見出すことが困難であること、そして、ほとんどの人間の心がふとしたことで死んでしまう可能性があること、それによって人間の生が「存在」へと堕落するという人間存在の脆弱さにも気づいていたのかもしれない。