Thursday, September 27, 2007


死刑制度の話


一昨日のニュースになるけれど、鳩山法務大臣の死刑制度についての発言が気になって考え込んじゃいました。  


以下、読売新聞の記事より引用。


死刑執行は「自動的に」鳩山法相が退任会見で見直し提案  鳩山法相は25日、内閣総辞職後の記者会見で、死刑執行の現状について「法相によっては、自らの気持ちや信条、宗教的な理由で執行をしないという人も存在する。法改正が必要かもしれないが、法相が絡まなくても自動的に執行が進むような方法があればと思うことがある」と述べ、法相が死刑執行命令書にサインする現行制度の見直しを提案した。  鳩山法相はさらに、「死刑判決の確定から6か月以内に執行しなければならない」という刑事訴訟法の規定について、「法律通り守られるべきだ」との見解を示し、執行の順番の決め方についても、「ベルトコンベヤーと言ってはいけないが、(死刑確定の)順番通りにするか、乱数表にするか、そうした客観性がある何か(が必要)」と述べた。  そのうえで、誰を執行するのかを法相が最終的に決めるやり方では、「(法相が)精神的苦痛を感じないでもない」と言及。冤罪(えんざい)などを防ぐための慎重な執行が求められるという指摘については、「我が国は非常に近代的な司法制度を備え、三審制をとり、絶対的な信頼を置いているわけだから、(法相が執行対象者を)選ぶという行為はあってはならない」と語った。


(2007年9月25日13時11分 読売新聞)


引用終わり


高度に政治的であるゆえに、自らの立場を決められないような問題があります。死刑制度の是非は、その最も典型的なものです。僕はアクティブな活動家では全然ないけれど、死刑制度には疑念を抱いています。日本では少数派です。


鳩山法相の発言が印象的だったのは、法相の裁量、あるいは個人的信条によって死刑の実施の有無が決定されている現状を指摘したこと(杉浦正健元法相の「私は死刑を承認しない。サインをしない」という趣旨の発言はまだ記憶に新しいですね)、そして、その打開策として、死刑は「ベルトコンベア」のような無人のシステムとして国家という装置に確実に組み込むことを提案したことです。


言語だとか、社会的慣習だとか、資本主義だとか、無意識的にわれわれの活動を制御するようなシステムが社会にはいくつかあります。そうしたシステムは、歴史的なコンテクストの中で変化を重ね、あるいは主体であるわれわれから働きかけることによって変化を重ねてきたわけです。われわれは歴史を通して、システムはときに不完全であること、ときに暴走し、制御ができなくなることがあることを知っています。われわれは、システムに修正を加えたり(言語や資本主義の歴史が典型的です)、あるいは、システムを抜本的に改造したりすることで(終戦後の日本のあらゆる改革が典型的です)、その都度、システムを変化させてきました。国家の法制度も、そうしたシステムの1つだけれど、そうしたシステムはあくまで客体にすぎないのであって、それが、あたかも自動車の部品を組み立てるベルトコンベアのように機械的に、主体であり現実的な存在物である人間を「抹殺」する仕組みをもつことを許してしまっていいのかということについて、僕はかなり根深い疑念を持っています。


犯罪の抑止、という視点はまさに警察組織、そして刑事罰というシステムをわれわれが持つに至る重要な動機だけれど、残念ながら、死刑制度が犯罪を抑止するという有力で普遍的な支持を得るような調査はないようです。これについては一次情報にあたったわけではないし、統計学の専門家でもないけれど、もしそれを事実であると信じるなら、犯罪の抑止効果は、システムに生殺与奪件を与える論拠になりえない。近世ヨーロッパや日本で行われていた公開処刑が復活することはありそうもないしね。


被害者や遺族の気持ちになると…という議論もあるけれど、語弊がないことを祈りながら書くと、そんな、時間や個々人によって変化する曖昧なものが、死刑制度という少なくとも短期的には絶対的なものとして機能する「国家的システム」の論拠になるのか、懐疑的です。もちろん、僕が愛する人間を殺されたとしたら、犯人を殺したいと思うでしょう。でも、制度のような普遍的なシステムの構築についての議論は、「被害者の土俵」で「個人的怨念で熱くなった頭」を想像しながら行われるべきではありません。刑罰はそもそも、リンチ(私刑)を許容するものではないのですから。「拓があいつを殺したいと思う、復讐して抹殺したいと思う」ということと、「あいつを抹殺するシステムが国家にあってあいつは抹殺される」というのは、議論の次元が全く違うのです。そして、そのシステムは、神によって作られたのではなく、不完全な人間によって作られた、そして、逆説的ではあるけれど、一切の感情を捨象して非人間的に人間を制御するシステムなのです。そうしたシステムに対峙するとき、われわれは慎重な姿勢を崩さずにはいられません。


現に、家族を殺人事件で失いながらも死刑廃止運動に参画されている方もおられるけれど(もちろんそんなのは圧倒的に少数派に決まってるけど)、そういう方がメディアで発言するのを目にすることはほとんどありません。涙を流して憤っている被害者の方が「犯人には極刑を望む」と口にするのはよく聞くけれど。これも、日本の多数派が聞きたいと思われる報道が、資本主義というシステムの下でなされていることに起因することだと思います


われわれの手を超えたところにあって、でも、確実にわれわれを制御している「システム」というものの存在に僕は比較的敏感で、考えを巡らせることがよくあります。そうした文脈から死刑制度を見ると、少し違った見方ができるように思います。