Monday, September 17, 2012

遅ればせながらブログの移動のご案内。

遅ればせながらですが、ブログをはてなダイアリーに移動しました。

新しいウェブサイトはこちらです。


Taku's Blog
http://d.hatena.ne.jp/nakanotaku/


これまでと同じように、読んだ本や観た映画の紹介、創作を中心にしたウェブサイトです。ただ、急激に読者の方が増えたのもあって、これまで以上に丁寧に文章を書いているつもりです。

中野拓

Monday, September 19, 2011


電力事業の独占体制こそを見直すべきだ


このEconomist誌の記事は、日本の電力事業における事実が非常に簡明にまとまっている。そして、挙げられているいくつかの事実は、事実として国民に共有されなければならない。以下(a)-(k)は、この記事で挙げられている事実だ。(c)の後半の記述および、原発が稼動しない場合の経済へのインパクトの数値予想(j)を除き、全て客観的事実が述べられてある。


a)日本は、10の電力会社が、それぞれの地域で独占的に電力を供給している。それら10社の電力供給は、総供給の97%に及ぶ。当然、企業独占は、価格を高止まりさせる。(Economist誌の諸外国との電気料金の比較を見よ)
b)市場が競争的であれば、当然、需要のピーク時には価格が上昇し、需給を調節する。電力需給が逼迫していたときでさえそれがなかったのは、ひとえに電力市場が独占的だからである。
c)現在調査中ではあるが、この地震大国で、(津波ではなく)地震が原発に致命的な損害を与えた可能性が高い。(そうであれば、原発の安全神話は嘘である)また、日本の、他の原発がある地域でも、マグニチュード7を超える地震が相当の確率とともに予想されている。
d)国民は、罰金まで課して15%の節電をした。(電気価格のインセンティブによらず、「我慢」と「根性」でだ。)誰もが停電を予想したが、国民の努力によりそれは起きなかった。
e)一方で、東京電力が、メルトダウンの事実を公開したのは事故から9週間経ってからである。夜の関東地方の夜景に穴が開いたような闇を落とした、あの計画停電のとき、東京電力はメルトダウンの事実を否定していた。
f)政府の初動に批判が集中したが、東電の情報隠匿により、首相にすら重要情報がもたらされなかった。菅は、わざわざ怒鳴りつけにまで行ったのだが。
g)東京電力の昨年の広告費は、260億円(!)である。競合他社がいないにも拘わらず、だ。(他の9つの独占的電力会社の広告費を加えるといくらになるんだろうか)
h)電力会社は、政治家、学会、財界に莫大な影響力を持っている。特に、経団連は、既存の電力会社による電力の安定供給をあてにしており、電力の市場開放に反対している。
i)複数の経団連に参加している企業が、財・サービスを電力会社に提供する見返りに、大幅な電力料金の割引を受けている。
j) 原発が稼動しない場合の影響は深刻だ。これはあくまでエコノミスト誌の予想であるが、1年間原発が稼動しなければ、GDPは3.6%下落し、20万の職が失われるという。このシナリオ通りでなくても、これからも原発が凍結されたままであれば、経済に甚大な影響を与えるのは、間違いない。
k)電力業界への新規参入は、現在では規制の網が「悪夢のよう」(孫正義)であり、極めて困難である。

そして、これは僕の付け加えであるが、東京電力がもつマスメディアへの影響力から、当初なかなかこうした事実は報道されなかった。今でも、かなりの部分はそうであろう。

ここで、(a), (b), (g), (h), (k)は、電気料金の高止まりの要因である。

…ここからは私見であるが、市場メカニズムを導入すれば価格が下落するときに、電気料金の高値を託ち、産業の空洞化を憂うのは(つまり経団連の言い分は)、愚かである。原発を一気に廃止することは、その経済に与える影響からできそうにないが、「減(あるいは脱)原発」のを中長期的に推し進めるのと同時に(記事の中で東電社長が言うように、中期的な「減原発」は、東電の公式見解でもある)、電力事業への新規参入にインセンティブを与えるべきだ。発送電網を分離し(http://kotobank.jp/word/%E7%99%BA%E9%80%81%E9%9B%BB%E5%88%86%E9%9B%A2)、他の企業に発電事業に「本格的に」参入させるのはその1歩だ。これは、電力価格を下げるだけではない。電力価格が下がれば(かつ他の条件が同じならば)企業の投資は拡大するはずだ。

そして何より、多くの国民が、東京電力のこれまでの対応および情報の隠匿に苛立ちを覚え、不信を感じているだろうが、これらは、競合他社があり、かつここまで巨大な影響力をもつ企業でなかったとしたら不可能だったはずだ。地震後、「原発は安い」「いや、嘘だ」という議論の食い違いを何度も見たが、これは、そもそも初めから情報がオープンであれば、結局、賠償額の違いにだけ帰着する議論のはずだ。でも、そうはならない。コストや安全性が不透明なのも、事業を独占的に請け負っており、政財界との癒着があるからこそ可能であった。(あの大事故の後ですら、経営陣にほとんど変更がないのだ。これは、まともなことだろうか。) ほんとうに原発がコストが安いのか、電力が、より競争的な市場で供給されるようになってから、改めて検討したらよい。少なくとも、独占企業には、コストを下げるインセンティブはない。価格に上乗せすればいいからだ。

原子力発電は、経済的効率性の追及の産物だという指摘がある。そうかもしれない。そうで「あった」かもしれない。しかし、仮に原発が、経済効率がたとえ非常にすぐれていたとしても、私たちはいまや、それを無尽蔵に濫立させるのを許すはずがないし、事故が起こったときのリスクは、文字通り国がひっくり返るほど大きいことをよく知っているはずだ。

脱原発の声は大きい。賛成だ。だが、それをすぐに達成できる見込みはない。原発からの電力への依存や、原発立地地域の産業を含めた、日本経済の構造全体が、その早急な実施を不可能にしているからだ。そして、その根を辿っていけば、必ず、電力会社の事業独占と、そこから生じる政界・産業界への利権の問題へとたどり着くはずだ。ならば、同時に、電力事業の自由化・独占から生じた弊害も、同じくらい声高に叫ぶほうがいい。少なくとも、独占事業にメスを入れるという意味では、郵政の民営化よりはずっと重要な政治的課題であることは意識しておくべきだ。(2005年、国民はあんなに熱狂したではないか。)

(参考) 
既存の発送電分離の「中途半端さ」および、技術面からの慎重な検討については、たとえば、WSJ日本版のこちらの記事も参照してください。

Sunday, August 21, 2011


 8月21日フジテレビ抗議デモ、ナンセンス。

 今日のお台場のフジテレビ抗議デモ、ジャーナリストの安田浩一@yasudakoichi氏によると、6,000人集まったんだって。
で、デモの様子を撮影した写真を見ると「韓流ゴリ押し やめろ」とか書いたプラカードを持って行進してるんだけど、もー、まったく意味が分からない。そのへんで発情してるネコでも、もう少し良識があるよ。(ニャァ?)

  1.  「イヤなら見なけりゃいい」と一部芸能人が言っていたけどその通り。「見ない」ことが即、「韓流」への反対票を投じることになるのだから。そもそも、民放局は、視聴者を広告主に売るビジネスなんだよ。(だからこそ、あなたたちはタダでフジテレビの番組を見て、文句を垂れることが可能なのだ)

  2. 「ゴリ押し」が意味不明。今では、他に選択肢が、げっぷが出て嘔吐するくらいにたくさんあるじゃないか。(おぇ!)僕を含め、今回の騒動で初めて、フジテレビがたくさん韓国のドラマを放送していたのかと知った人、それで自分のテレビ離れを実感した人は多いと思うよ。

  3. 「公共の電波を使っているから」というのも意味不明。「韓流」を放送することが、日本国内の公序良俗を乱したのか。アメリカの映画だってけっこう放送されてるんじゃないのか?複数の民放局がある中、1つの民放局が、「韓流」を多く放送することが公共の利益にそぐわないとしたら、それはなぜで、どうすれば改善されるのか?


 …結局さ、たとえば、あなたが、市役所に行って、食堂で民間委託の外食産業のパートのおばちゃんが作ったカレーうどんを食べました。美味くないです→『おれは』これが嫌いです→何より、原料の小麦粉が日本産ではない、あれ、韓国産ではないか!→あれ、メニューを見ると、かけうどんに、てんぷらうどんに、ざるうどんに、きつねうどんに…ここの食堂、うどん多すぎ!→『公益に』反する、デモをして抗議をしなければ!!…くらいの話でしょう。あなた方は、今日は礼儀正しかったらしいけれど、その知性の低さは、公共性にとって資するところは何もないです。(発情期のネコくらいに。6,000人もニャー、ニャー、騒がしいし。)

 そのカレーうどんが気に食わないのなら、他のお店で食べなさい。ただし、そのカレーうどんには一定数のファンがいて、利益も上がっていることを忘れずに。日本の老舗の、原材料に国内産のものだけを使っているところを応援しなさい。(ネットがあるからタダで広告できるし。)あるいは、自分でうどんを捏ねてもいいし、それが大変ならば、もう少し簡単な料理を、好きな材料だけで作り、食べなさい。

                               J CASTニュースのウェブサイトより写真を転載

 You shouldn't say it is not good. You should say, you do not like it; and then, you know, you're perfectly safe.
(「良くない」とは言わないほうがいい。「私は好きではない」と言う方がいい。そうすれば、ほら、全く安全だから。)
(James Abbott McNeill Whistler (1834 -1903))

Saturday, August 06, 2011

竹田青嗣『自分を知るための哲学入門』 書評


 「哲学」とは、自分や世界の深淵を覗き込むことができる、高尚な知的営為に違いない、そんな予感から、僕は、高校生の頃には、「哲学」というものに漠然とした憧憬を抱いていたように思う。大学に入学した年に初めて買った哲学書は、カントの『純粋理性批判』であり、経済学の講義で一部分だけが試験範囲になった、マルクスの『資本論』の第一巻だった。それまで、大した読書経験がないのに、自惚れだけは強かったから、日本語で書かれ、長く読み継がれ名著とされてきたこれらの本にまったく歯が立たなかったことに少なからずショックを受けた。後になって、こうした本は独力で読むには、まして高校を出たばかりの18歳の子どもが読むには難しすぎるのであって、指導を受けたり、解説書を傍らに置きながら、仲間たちと協力し合って、長い時間をかけて読むものだということを知ったのだが、いったん「哲学書は極端に難しい」という意識を植え付けられてしまったためか、最近まで、哲学書には、劣等感と憧憬とが入り混じったような変てこな気持ちで接していた。

 大学を出てからは、精神科医が書いた大好きな本の中で何度もニーチェからの引用があったり、興味に迫られて読んだ本の議論が、例えば、J..ミルや、例えば、ボードリヤールや、例えばベルクソン、例えばフーコーなどの思想を基盤としていたりというようなことがあって、いつしか「哲学」は、「いつかはきちんと読まなければならない」という、先延ばしの悪癖のある僕の前に、いつもそこにある宿題としての地位も占めるようになった。

 哲学書だけは買ってあって、なかなか手に取ろうとしない怠慢な僕が、ふと本棚の奥に、昔買ったこの本が眠っているのを見つけて手に取ってみたのは、このような先延ばしに自分でもうんざりし始めてきたときだった。

 この本がユニークなのは、最初の90ページをも使って、僕が上に書いた、哲学書を読むのに逡巡しつつも、憧れだけはどこかでくすぶっている、「あの思い」を、著者が、著者自身にも共通する思いとして、自身の人生体験と重ね合わせながら誠実に綴っていることだ。これだけで、僕はもう魅せられた。

 その後の解説は、ソクラテスやプラトンがどういった意味で独創的だったのか、デカルトやカントが、どのような意味で重要な哲学者であるのか、著者が専門とするフッサールらの現象学とは何か、ニーチェやハイデガーの思想は、それまでの思想の何に反駁したのか、現代思想の抱えるアポリアとは何か…というようなものだ。著者自身が心がけたというように、それらは(知的な読書を妨げない程度に)できるだけ平易に記述されていて、一読すると、哲学は2000年以上も、同じような問題を(たとえば主-客が一致するかどうかという問題などを)原理的なレベルでずっと考え続けてきて、時折現れる大哲学者に問題をひっくり返されてきたのだな、ということがよく分かった。また、例えば、カントやニーチェやフッサールなどの思想の独創性や意義も(この本に書かれてある範囲で)よく分かったが、もし、原典を読む際に、彼らが、それまでの哲学で常識であったどのようなことに説得的に異議を唱えたのか、という歴史的背景の知識がなければ、やはり読んだり理解するのは苦しいだろうな、とも思った。

 現代思想ですぐに読みたいなと思っている本は何冊かあるのだが(特にニーチェとボードリヤールの著作)、竹田の他の著作から、基本的な背景知識を勉強しながらの併読となるかもしれない。平明で興味深い解説書であると同時に、哲学を愛する著者の息吹が聞こえるような、哲学の初学者にとって格好の著作であると思う。



ミラン・クンデラ 『ほんとうの私』 書評


 以前『存在の耐えられない軽さ』と『不滅』を読んだ僕にとっては、この作品はクンデラ3作目となる。本作はハードカバーの翻訳で200ページほどの小品で、前2作が世界文学の中で燦然と輝く大傑作なのに比べると、やや目立たない印象があるかもしれない。それでも、僕は、この作品を非常に丁寧に書かれた、奇妙で、とても面白い小説だと思った。

 原題は、L’identité (『アイデンティティ))。広告会社に勤める、老いの徴候が現れ始めた女性を軸に物語は展開する。彼女と同棲する経済力のない年下の男が奇妙な手紙(匿名で、「私はスパイのようにあなたの後をつけています。あなたは美しい、とっても美しい」と記した手紙)を、彼女にそっと届けたのだが、彼女がそれを自分の下着の中に隠しておいたこと、彼女が次の手紙を楽しみにするようになったことで、彼女は彼にとって、もはや以前の彼女ではなくなってしまった。それは、同時に、彼女自身のアイデンティティが揺らぎ、ますます不確かになり、変質し、最後は崩落の危機に陥ることであった。物語は、アイデンティティの支えがない、もはや現実と幻想とが交錯した場所で終焉を迎える。

匿名のストーカーじみた手紙を受け取り、心ときめいて箪笥のブラジャーの中に隠しておく中年女性は、言うまでもなく、滑稽だ。これは、この作品の中でもあくまで1つの例に過ぎないが、「滑稽」というのは、クンデラの小説を形容するのに、しばしば適切な語だと思う。それは、生と性の哀しみを内包した滑稽さであり、「それでもなお」悲痛に生きていくわれわれを包み、闊達に笑うような滑稽さだ。





Monday, July 11, 2011

黒澤明 『影武者』 映画評



 壮大で迫力ある映像に圧倒される。力強い脚本に呑み込まれる。そして何より、一人の男の演じる「影武者」としての生の儚さに、哀しくなり、同時に心を寄せられる。

 武田信玄亡き後に、信玄の影武者を演じるのは、元盗人。小銭を盗んで磔になるところを、信玄の顔にそっくりだというので、命を助けられ、武田家に連れて来られたのだ。

 影武者は、正体を暴かれないこと、「ほんとうの」自分を極限まで無化することだけが仕事だ。正体がばれてしまえば、用済みだ。偉大なる信玄の亡霊は、彼が生きる唯一のよすがであり、同時に彼をいつでも殺してしまう。彼は、信玄の実の孫を溺愛するようになり、羽目を外した途端、正体を暴かれ、何もかもを捨ててしまうことになる。

 誰にも愛されることがない人間にとっては、「ほんとうの」自分を隠し通すことは、唯一の生きる術ではある。しかし、程度の差こそあれ、私たちは日々、ある意味で自分を無化しつつ、役割を演じながら生きているのだから、そして、私たちも、そうした中でも、少数の気の置けない人との時間を愉しみ、やがて儚くも何もかもが終わってしまうのだから、「影武者」とは私たちでもあるのだ。

 黒澤は、豪胆で魅力ある武人たちを、無数の騎馬を、迫力いっぱいに画面の中で躍らせたが、その前景にいるのは、私たちのような、平凡で、ある意味哀しい生を精一杯生きる、一人の人間なのだ。

Monday, July 04, 2011

村上春樹 『はじめての文学』 書評


 
 タイトルの『はじめての文学』が示しているように、これは、村上氏が、これまで書きためてきた短編を、主に年少者に向けて選び、適宜加筆修正を行ってまとめたものです。

 もっとも、彼は児童文学の作家ではないから、初めから年少者を念頭に書かれた作品は、冒頭の『シドニーのグリーン・ストリート』だけで、後は全て大人の読者に向けて書かれた作品です。

 僕は、彼の小説、短編は全て読んでいますが、特に短編では筋を忘れていたものも多く、肩肘張らない読書の愉悦に浸ることができました。

 この作品集の中では、『踊る小人』と『かえるくん、東京を救う』に胸を締め付けられるような思いをさせられました。両作品とも、非力だけれども、必死に生きる人間が、ときに直面する、あるいは包囲されうる、世界に確かに存在する激しい暴力性をグロテスクに描いています。それは、氏がこれまでも何度も描いてきたテーマですが、村上氏が、「年少者に向けて」これらの作品をも選定したのは、設定が取っ付きやすいだろうという目論見に加え、物語という虚構を通して、現実の世界のすばらしいことも恐ろしいことも語ってみせよう、それが文学というものなのだからとの思いからでしょうか。

 気軽なプレゼントとしても最適な一冊だと思います。

Sunday, July 03, 2011

高橋秀実 『やせれば美人』 書評





著者と、著者の奥さんとの二人三脚でのダイエット奮闘記。思わずふきだしてしまうような可笑しさ、ほんとうは全然やる気がない奥さんへの温かい眼差しと深い愛情、そしてノンフィクション作家としての、手の込んだ下調べ、たくさんの女性への入念な取材と観察眼、すべてが渾然一体となって、極上のエッセイに仕上がっています。とても丁寧に書かれている本ですが、あくまで軽いエッセイ。読み出したら、きっと一気に読みきってしまうと思います。