Thursday, June 23, 2011

大平健 『豊かさの精神病理』&『やさしさの精神病理』 書評


やさしさの精神病理 (岩波新書)



























 『豊かさの精神病理』は初版1990年、『やさしさの精神病理』は初版1995年だ。書かれた時期はそれぞれ、日本がバブル経済のクライマックスにいた頃と、その後の経済の停滞、先の見えない閉塞感が日本を覆っていた頃だから、5年というのは短いようで長い。そして、その長期停滞と、閉塞感の蔓延は今なお継続しているからだろうか、あるいは、私が1990年代半ばから後半に思春期を過ごし自我を形成してきたからだろうか、私にとってより親和性があったのは後者であった。もっとも、モノに振り回されがちな傾向がある人は、前者の方が馴染みやすいかもしれないし、そうでなくても、自分とは違ったタイプの人間の価値観の深みをちょっと覗いてみるのは、なかなかに興味深い体験である。

 両方ともの本が、伝統的な意味合いにおいては「精神病患者」とは呼べないような人たちが、精神科の外来にやってきて、日常のちょっとした困ったこと、悩みを相談するという事例を主題としている。それまでにはなかったような現象ということで、著者は、こうした患者たちを「よろず相談の患者」と名づけている。

 よろず相談の患者たちは、精神医学の意味合いにおいては精神病に分類されるわけではないから、彼ら/彼女たちの悩みは表層的なレベルにとどまっている。が、しかし、患者自身、その葛藤がどこにあるのかなかなか気づくことができない。だから、精神科医の著者が、カウンセリングの手法で、患者自身の「気づき」を、自らによる「答えの発見」を助力する。われわれの日常会話や自己対話にも応用できそうな、人の心の機微を掴んだ巧みなカウンセリングだ。

 『豊かさの精神病理』では、自分自身の内奥についての理解はさっぱりなのに、所有物の話や食べ物の話になるととたんに饒舌になる患者たちが登場する。それは、あたかも、奢侈なモノによってこそ自我が保証され、繋ぎとめられているようだ。私から見ると、そうした人々の浅薄さは悲劇的に映るのだが、彼ら/彼女たち自身は、「ネアカ」の人々だ。だからこそ、著者は、そうした新しいタイプの人々がよろず相談に精神科の外来にやっていることに驚き、執筆に至ったのであろう。

 『やさしさの精神病理』では、著者の世代の人々(著者は1949年生まれ)にとっては、意味を理解するのが困難な「やさしさ」が登場してきたことに焦点があてられている。お小遣いをもらってあげる「やさしさ」、親しい人に愚痴をこぼさない「やさしさ」、好きでもないのに結婚してあげる「やさしさ」…。こうした「やさしさ」の感覚は、私(1981年生まれ)にとっては、実は、十分に想像力の射程に入る概念だ。彼らは、対人関係の葛藤には極端に敏感(脆弱?)で、「ホットな」(=暑苦しい)人間関係を避ける。何かを決断するのに困難を感じることが多く、その通奏低音は、周りの「やさしさ」により増幅される…。

 どちらの人間模様も、ある意味では時代の産物なのかもしれないが、今を生きる精神科医が、臨床経験から鮮やかに浮かび上がらせた、ある意味では極端な人間像・思考と行動の様式は、その時代を俯瞰しようとするときに、重要な証言になるのかもしれない。

 熟練の域にある精神科医のカウンセリングによって、当人たちも気のつかなかった葛藤がどのように立ち現れ、患者に「気づき」を与えるのかも、もちろん、大きな愉しみのひとつだ。