Monday, December 17, 2007

信仰について

最近、尊敬する二人の女性の友達と、彼女たちの信仰について話をする機会を持ちました。1人は日本人で、日本の比較的新しい宗教を信仰している人、もう1人はシンガポール人で、仏教の一宗派を信仰している人です。

僕は、自分の信仰の立場について話すときは、”agnostic”(神の存在については人知では語りえないという立場)であると言うことにしています。(ちなみに、英語で「無神論」というのはatheismというのだけれど、これはかなりショッキングな響きを持つ言葉です。)僕は祈ることもないし、超自然的な力の存在を信じることもほとんどありません。なぜ世界が存在して、「私」が存在するのか、英語には、intelligent design(偉大な知性による世界の設計)という、幾分宗教色を薄めたような概念があるけれど、世界を設計したその知性はどこから生じたのかという当然の疑問から、僕はそうした立場にはむしろ否定的な立場を貫いてこれまで生きてきました。

しばしば落ち込み、迷い悩む僕のことを親身になって心配してくれて、彼女たちは自分の信仰について語ってくれました。二人とも、芯があり、精神的にも強く、善く生きているように感じました。とても印象的な対話でした。

科学の発展が多大なる果実をもたらし、物質的な必要性が満たされるにつれ、宗教は世界を説明する手段としての力を失い、政治や教育の現場から切り離されてきました。物質主義が勝利した現代では、多くの人は、とりわけ日本人は、科学のもたらした恩恵に浴しながら、宗教を敬遠し、高度資本主義社会の中での立ち回り方を器用に身につけていきます。でも、宗教がなかったら、苦しみ、迷ったとき、どこに心の拠り所を求めたらいいのだろう。科学的思考の帰結が、物質主義とニヒリズムであるとしたら、どうやって生を肯定したらいいのだろう。鼻白むような自己啓発本が次から次へと出版されているのは、まさに「藁にでも」すがりたいような現代人の迷いを象徴しているように感じます。

どんな質問でも無下に扱うことはないと語る、仏教を信仰するシンガポール人の友人に、reincarnation(輪廻転生)について質問しました。輪廻転生の概念は、科学的世界観と明らかに矛盾する。証明することもできない。それをどうやって受け入れることができるのですか、と。彼女は、「確かにそれは科学的世界観と相容れない。私は、50%は信じて、50%は信じていない。ただ、これまで二度、オランダと日本で、これまで見たこともないものに強烈な懐かしさを感じたことがある。それが、私が50%、輪廻転生を信じている理由だ」と答えてくれました。

宗教に全く関心のなかった僕ですが、最近、それが、生きるための軸と知恵を提供するものとして見直すようになりました。宗教で客観的世界のあり方を説明しようという試みは、近代以降挫折してしまったように僕には思われるのだけれど、私=世界、あるいは「脳内現象」であるところの世界とうまく付き合っていくための慧眼は、科学だけでなく宗教もまた、提供することができる。そんなふうに最近は感じています。

Thursday, October 25, 2007

夢の話

ぬるいお風呂に浸かりながら脳科学者の茂木健一郎の本を読んでいた。本の中で、彼が箱庭療法を受けた話、そして、彼が見た夢を書き記しておく習慣があるという話に至った箇所で、突然、昨日見たとても奇妙な夢の話を思い出した。その夢は、強烈な印象を残して僕を眠りの外に引きずり出した。夢と現の間を行き来しながら、これは忘れることができないと思ったのだけど、再び目が覚めたときにはすっかり記憶の外側に行ってしまっていた。全くの偶然でその夢の記憶が蘇ると、もう、活字が頭に入ってこなくなった。

グロテスクなことを書くので、苦手な人は読まないでね(本当に)。

………

僕の足元に、白っぽい、両手で抱えるくらいの大きさの袋が飛び出してくる。
袋は突然破れて、中から、巨大な心臓が現れる。
心臓は、中央がへこみ、どくん、どくん、と動いている。
赤黒い血液でどっぷりと濡れている。
まだ、動いている、と思う。
血液がみるみる間に溢れ出す…。

ふと前を見ると、左右に二つの巨大な風船がある。白くて、中は見えない。
右側の風船が破裂する。
数人の、首をつった人が現れる
皆、白い服を着て、白い布で頭を覆われている。
次に、左側の風船が破裂する。
女の子が数人、首枷をつけられている。
中に、一人知っている女の子がいる。
僕は、必死で、「見るな!」と叫ぶ…。

………

あれだけ強烈な印象を残した夢のことを、すっかり忘れてしまっていたのは驚きだった。
夢の中で、あるいは目覚めた直後、夢を覚えておきたいという強烈な思いに駆られることがある。でも、それらの夢は、ほとんど全て、朝露のように消えてしまう。
茂木健一郎が、箱庭療法で無意識の世界が表出されることに驚きを表明していたが、無意識の世界は、覚醒しているときには想像もできないほど、深く、広く、不条理だ。

無意識の階段を降りてみたいと思う。
海の底に沈んだ記憶や思念に触れてみたいと思う。
でもきっと、それらは、一度も掬い上げられないままに、僕という存在が消えてしまう。
それらの記憶や思念が僕を形づくっているのだとしたら、それは、とても、不条理だ。

Monday, October 22, 2007



昭和天皇と原爆投下

ニコニコ動画ってサイトで古い映像を見ていたら、広島の原爆投下について、昭和天皇が記者会見で、

「原子爆弾が投下されたことに対しては、遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民には気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます」

と発言する映像があったんです。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm554496

前の内閣の防衛大臣が、原爆の投下を「しょうがなかった」と形容したときには、「何てことを言う人なんだろう」と思ったけれど、昭和天皇がこのように言うとは…。

僕は、天皇制、とりわけ、昭和天皇と言う人間を、外部からの批評的な視点で見ることができません。僕は昭和56年生まれだから、昭和天皇についての記憶は極めて限定的なものだけれど、それでも、触れてはいけないような畏怖の感情があります。それは、戦前において日本人の精神性を纏め上げていた現人神への畏れであり、敗戦後というまったく違う国家体制において、なお、大多数の日本人に尊崇されていたことへの畏れでもあります。日本の戦前と戦後というような、根底から異なるような二つの国家システムの両方において、国民から畏敬の念を持って見上げられ、神格化された人間を、世界史上、僕は寡聞にして知りません。

1793年、フランス国民は国王ルイ16世を断頭台に送ったけれど、戦後、昭和天皇は断頭台に送られることはありませんでした。アメリカを中心とする占領国軍は、天皇の戦争責任を追及することは日本国民の反発を招くと判断し、実際、この方針は大多数の日本人によって歓迎されました。概して言って、日本における天皇の地位は、戦中も戦後も安定した国民のコンセンサスを得続けてきました。今日でも、君が代や日の丸や靖国に奉られたA級戦犯に反発する国民も、天皇制に反発することは極めてまれです。皇室に批判的な言説は公共空間ではまず許容されない。ごく客観的に言って、これは不思議なことです。

高校時代に、日本史の先生が、「昔ある生徒から『なぜ、日本史において天皇制は途絶えなかったのか』と質問されたことがあるが、答えることができなかった」と話していたのが印象的です。

この映像を見たとき、僕は本当にびっくりしました。月並みな言い方だけど、「耳を疑い」ました。防衛大臣どころか、「当事者」なんだから。 でも、僕は、この発言を断罪するような勇気を持ちません。「昭和天皇」について、僕は、僕が生まれるずっと前に存在した神格化された天皇像を抱えながらも、戦前と戦後の捩れの中で消化不良を起こし、禁忌として僕の内部に残っているような気がします。

" Hirohito and the Making of Modern Japan"(邦訳『昭和天皇』)や"Embracing Defeat"(邦訳『敗北を抱きしめて』)のような本が気になっていたのだけれど、外から見た日本をふまえてみると、この複雑な感情も説明がつくのかもしれない。

Thursday, October 11, 2007


ミランダ効果(the Miranda Effect)
BBC reported this Tuesday (Wednesday in Japanese time) the Miranda effect, which has been observed in the U.S. these days and was named after one of the main characters in an American TV drama “Sex and the City.” In the show, Miranda is a high-flying lawyer and a graduate of Harvard. Her aggressiveness sometimes scares off men who try to ask her out.
The Miranda effect boils down to high-achieving women pretending to be less successful than they really are, for fear that they might make their potential partners feel uncomfortable and threatened.
Does it happen everywhere? They conducted an interview in London. One woman said that women should be more confident. Another woman said that when men enjoy their relationships women can feel more powerful. One man said that he looked for something more than what their career or achievement might be and that career is only a transitory thing after all. Another man said that if his career was in decline he might feel very threatened.
As for me, the Miranda effect seems understandable because I often feel inferior to others. I would feel insecure in front of women like Miranda, though I also find it difficult to get on with male go-getters.
Here in Japan, too, the Miranda effect might become more commonplace as more and more women are socially or financially successful. I imagine a lot of career women are already trying to look less important than they are in front of men in their minds.
Career pressure and the new game between mediocre salarymen and competent career women. A tough challenge for new-generation ladies!

火曜日発信のBBC News Podcastを聴いていて知ったんだけど(イギリスとの時差の関係でちょっと遅いです)、今アメリカでは、「ミランダ効果」(the Miranda Effect)というのが話題だそうです。 ミランダというのは、もちろん、Sex and the Cityに登場する、ハーバード大学出身の女性弁護士です(すごいね)。特に女性の方の間では、SATCって根強い人気がありますよね。僕はこのドラマを少ししか見たことがないのであまり詳しいことは知らないんだけど彼女の勝気な性格が男の人を敬遠させているんです。


で、「ミランダ効果」というのは、経済的にも社会的にも成功している女性が、相手の男性をビビらせちゃって遠ざけちゃわないように、わざと、そんなに成功していないように振る舞うこと。


ロンドンでの街頭インタビューでは、「女性はもっと自信を持つべき」という女性、「キャリアなんて永遠に続くものじゃない。キャリアより大切なものがあるよ」っていう男性、「男性が楽しんでくれたら女性は心強く感じる」という女性、「僕は仕事がうまくいってなかったら、怯えちゃうな」っていう男性などなど、いろんな意見が紹介されてました。


僕は…僕は、人よりコンプレックスが強いほうなので、この「ミランダ効果」は結構よくわかります。ミランダみたいな女性の前では怖気づいちゃうタイプかもしれない。いや、相手が男性であっても、アグレッシブなタイプの人の前では結構怖気づいちゃうんだけど。


日本でも、これからますます女性の人が社会的に、あるいは経済的に「成功」するようになっていくにつれて、この「ミランダ効果」が意識されるようになるかもしれない。すでに、こういうことを意識している女性もたくさんいると思うし。


女性にとっては大変ですね。

Thursday, September 27, 2007


死刑制度の話


一昨日のニュースになるけれど、鳩山法務大臣の死刑制度についての発言が気になって考え込んじゃいました。  


以下、読売新聞の記事より引用。


死刑執行は「自動的に」鳩山法相が退任会見で見直し提案  鳩山法相は25日、内閣総辞職後の記者会見で、死刑執行の現状について「法相によっては、自らの気持ちや信条、宗教的な理由で執行をしないという人も存在する。法改正が必要かもしれないが、法相が絡まなくても自動的に執行が進むような方法があればと思うことがある」と述べ、法相が死刑執行命令書にサインする現行制度の見直しを提案した。  鳩山法相はさらに、「死刑判決の確定から6か月以内に執行しなければならない」という刑事訴訟法の規定について、「法律通り守られるべきだ」との見解を示し、執行の順番の決め方についても、「ベルトコンベヤーと言ってはいけないが、(死刑確定の)順番通りにするか、乱数表にするか、そうした客観性がある何か(が必要)」と述べた。  そのうえで、誰を執行するのかを法相が最終的に決めるやり方では、「(法相が)精神的苦痛を感じないでもない」と言及。冤罪(えんざい)などを防ぐための慎重な執行が求められるという指摘については、「我が国は非常に近代的な司法制度を備え、三審制をとり、絶対的な信頼を置いているわけだから、(法相が執行対象者を)選ぶという行為はあってはならない」と語った。


(2007年9月25日13時11分 読売新聞)


引用終わり


高度に政治的であるゆえに、自らの立場を決められないような問題があります。死刑制度の是非は、その最も典型的なものです。僕はアクティブな活動家では全然ないけれど、死刑制度には疑念を抱いています。日本では少数派です。


鳩山法相の発言が印象的だったのは、法相の裁量、あるいは個人的信条によって死刑の実施の有無が決定されている現状を指摘したこと(杉浦正健元法相の「私は死刑を承認しない。サインをしない」という趣旨の発言はまだ記憶に新しいですね)、そして、その打開策として、死刑は「ベルトコンベア」のような無人のシステムとして国家という装置に確実に組み込むことを提案したことです。


言語だとか、社会的慣習だとか、資本主義だとか、無意識的にわれわれの活動を制御するようなシステムが社会にはいくつかあります。そうしたシステムは、歴史的なコンテクストの中で変化を重ね、あるいは主体であるわれわれから働きかけることによって変化を重ねてきたわけです。われわれは歴史を通して、システムはときに不完全であること、ときに暴走し、制御ができなくなることがあることを知っています。われわれは、システムに修正を加えたり(言語や資本主義の歴史が典型的です)、あるいは、システムを抜本的に改造したりすることで(終戦後の日本のあらゆる改革が典型的です)、その都度、システムを変化させてきました。国家の法制度も、そうしたシステムの1つだけれど、そうしたシステムはあくまで客体にすぎないのであって、それが、あたかも自動車の部品を組み立てるベルトコンベアのように機械的に、主体であり現実的な存在物である人間を「抹殺」する仕組みをもつことを許してしまっていいのかということについて、僕はかなり根深い疑念を持っています。


犯罪の抑止、という視点はまさに警察組織、そして刑事罰というシステムをわれわれが持つに至る重要な動機だけれど、残念ながら、死刑制度が犯罪を抑止するという有力で普遍的な支持を得るような調査はないようです。これについては一次情報にあたったわけではないし、統計学の専門家でもないけれど、もしそれを事実であると信じるなら、犯罪の抑止効果は、システムに生殺与奪件を与える論拠になりえない。近世ヨーロッパや日本で行われていた公開処刑が復活することはありそうもないしね。


被害者や遺族の気持ちになると…という議論もあるけれど、語弊がないことを祈りながら書くと、そんな、時間や個々人によって変化する曖昧なものが、死刑制度という少なくとも短期的には絶対的なものとして機能する「国家的システム」の論拠になるのか、懐疑的です。もちろん、僕が愛する人間を殺されたとしたら、犯人を殺したいと思うでしょう。でも、制度のような普遍的なシステムの構築についての議論は、「被害者の土俵」で「個人的怨念で熱くなった頭」を想像しながら行われるべきではありません。刑罰はそもそも、リンチ(私刑)を許容するものではないのですから。「拓があいつを殺したいと思う、復讐して抹殺したいと思う」ということと、「あいつを抹殺するシステムが国家にあってあいつは抹殺される」というのは、議論の次元が全く違うのです。そして、そのシステムは、神によって作られたのではなく、不完全な人間によって作られた、そして、逆説的ではあるけれど、一切の感情を捨象して非人間的に人間を制御するシステムなのです。そうしたシステムに対峙するとき、われわれは慎重な姿勢を崩さずにはいられません。


現に、家族を殺人事件で失いながらも死刑廃止運動に参画されている方もおられるけれど(もちろんそんなのは圧倒的に少数派に決まってるけど)、そういう方がメディアで発言するのを目にすることはほとんどありません。涙を流して憤っている被害者の方が「犯人には極刑を望む」と口にするのはよく聞くけれど。これも、日本の多数派が聞きたいと思われる報道が、資本主義というシステムの下でなされていることに起因することだと思います


われわれの手を超えたところにあって、でも、確実にわれわれを制御している「システム」というものの存在に僕は比較的敏感で、考えを巡らせることがよくあります。そうした文脈から死刑制度を見ると、少し違った見方ができるように思います。

Saturday, March 31, 2007


奴隷貿易と謝罪


イギリスBBCではここ最近大きくとりあげられていて、今日は、TBSのNEWS23(筑紫さんの出てるやつね)で特集が組まれていたのだけど、今年の3月25日で、イギリスが奴隷貿易を廃止して200年になりました。イギリスでは、奴隷と同じ方法で首をつないでの400キロのデモ行進が行われたそうです。 ブレア首相は昨年の11月に「深い悲しみ」の意(謝罪ではない)を表明したのだけれど、イギリス国内では、「謝罪すべき」「謝罪の必要はない」と大きく意見が割れたようです。 また、数百万以上の奴隷を「輸入」した「新大陸」アメリカにおいても、両方の見方があるようです。


いつもニュースを見るたびに、よく分からない、居心地の悪い思いをするのだけど、改めて、行為の直接的な責任者ではない人間が行う謝罪とは何か、考え込んでしまいました。 謝罪を心から求める人がいる。「それゆえに」謝罪することが必要だ。「謝罪」がこういった文脈で提供されるとしたら、それはもはや字義的な意味での謝罪ではない。 昔、小林よしのりが『朝まで生テレビ』での戦後補償についての討論で、「『謝罪』っていうか…、はっきり言いましょうよ、お金でしょ?」って発言してバッシングを受けたことがあったらしいけど…(笑)。 でも、政治的文脈では「謝罪」という言葉にはこういった捩れがあるし、関係者間の駆け引きを伴う。



奴隷貿易の歴史やアメリカ、イギリスの報道を簡単にネットで調べたんだけど、やっぱり物事はそれほど単純ではないようです。 Wikipedia(日本語版)を見ると、奴隷の「供給」は、主に当時のアフリカの黒人の権力者やアラブ商人によって、ヨーロッパ人との商取引を通して行われたもので、いわゆる「奴隷狩り」は15世紀の奴隷貿易当初を除いて行われていなかったという旨が記されていました。そうだったんだ!(日本人が奴隷として「取引」されたこと、豊臣秀吉が奴隷貿易の禁止令を出したことも書かれてある。そうだったんだ!)




本当かなぁと思っていろいろと調べてみると(好奇心からネットでやっていることだから、もちろん、一次情報にあたることはできないけれど)、たとえば、BBCの以下のサイトにも、奴隷貿易に現地アフリカ人が「供給者」として関与していたことが書かれてある。




さて、「謝罪」の問題。程度についての議論はあるだろうけれど、奴隷貿易が、欧米に「黒人」というマイノリティを出現させ、そして彼ら彼女たちは、現在にいたるまで、多かれ少なかれ不当な差別や不利益を被ってきている。数世紀前、大航海時代という新しい時代の幕開けとともに、巨大な世界経済のシステムに組み込まれた制度が、現在の社会に負の遺産(と多くの黒人によって見なされるもの)を残している。 奴隷貿易については、国家が、あるいは自治体が、「謝罪」すべきなのか。 「過去を乗り越えて未来に生きよう」と言えば、「黒人社会の現実を見誤っている」と糾弾される。といっても、今に生きる人間の行う「謝罪」は、それが内面から沸き起こる個人的な良心の呵責によってなされるものではありえない以上、表面的で形式的なものとならざるを得ない。以下のTIME誌の記事には、このジレンマについて触れられています。(添付した写真はこの記事からとりました。背中を鞭で打たれた痕が痛々しく残る、奴隷であった黒人の写真です。)




「謝罪」という語には捩れがある。利害関係のにおいがする。 ただ、歴史というものは、連続的なもので、特に奴隷貿易のような数世紀にわたって世界経済の仕組みに組み込まれたものは、たとえ制度が廃止されたところで、その社会的影響は脈々と現在まで生き続けている。 そして、われわれは、歴史なしにアイデンティティを語ることが難しい。白人の白人としてのアイデンティティと、黒人の黒人としてのアイデンティティが、歴史的な事情によって大きく違ってくることは容易に想像がつくし、マイノリティとして生きる黒人の歴史的アイデンティティについて白人が言及しようとすれば、「私は当事者ではない」という開き直りか、形式的な、慰めとしての「謝罪」以外の方法はなかなか難しいように思われる。「黒人も奴隷供給の当事者だった」という主張は正しいかもしれないけれど、マイノリティとして生きる黒人は、おそらくほとんどの場合、そういった歴史的物語を自分のアイデンティティにして生きていない。


国家による「謝罪」が、直接的な関係者が不在の文脈で行われる場合、「謝罪」という記録を相手の歴史に残し、その解釈を長期的に相手に委ねることにこそ意味を持ちうるのかもしれない。 歴史を背負っているということ、そして「違う歴史」を背負った他者がいるということの困難は、日本人にとっても無縁ではありませんね。ゆっくりと考えていきたいテーマです。

Thursday, March 08, 2007


Psychoanalysis


Yesterday I had a drink with a university friend. He has thought of himself and society without being bound by anything, and cut his own way free of what others do. He has read thousands of books, but at the same time, he has never given up thinking by himself.


Drinking beer, we talked about a variety of things, serious and light. One of the interesting topics we talked about was a book on psychoanalysis, which says that when patients with depression are properly counseled and treated, the first emotion that comes out of their unconscious is anger (and the next is sorrow). In other words, it is repressed anger that leads to depression, or in the worst-case scenario, suicide. (A mutual friend of ours who had suffered from depression and had been hospitalized for months died this January. She was two years my senior and a good friend. I am not sure of the reason of her death, although I had exchanged letters with her while she had been in hospital.) The author of the book is an experienced psychiatrist, and the well-advised content is based on his clinical experience.


Although not so much as she did, I have suffered from depression or erratic mood swings for years. I told him that what the author says could be to the point because I had hardly ever got angry with others and always had difficulty putting my negative feelings into words except for “depression.”


He was surprised. “Why not? Isn't there anyone that annoys or disgusts you? As for me, there are lots of guys that drive me crazy. I sometimes quarrel with even my girlfriend. She tends to be a bit too emotional, though,” he said. “Well...ah...sometimes I’m annoyed with others, but I’m not sure if it’s anger.” “Haven’t you hit anyone?” “No. Ah...once, when I went to junior high. I had a fight with a friend over a trivial thing. But that’s it. Actually I have never raised my voice in anger. I don’t know how to get angry. Of course I did express anger in some situations in my life, but I always felt awkward because whenever I ‘got’ angry, I thought, ‘I “must” get angry because people are treating me badly, because that doesn’t make sense, because of common sense, or something like that. I have never let my anger explode.’”


According to Foucault, the great French structuralist philosopher, human beings internalize moral standards of the surrounding society. I might have internalized the values that had worked and been regarded as respectable at school. I can remember I would often be praised for my well-tempered character at elementary school.


In addition, since my junior high and high school were oriented towards preparation for university entrance examinations, I put a mountain of energy into getting high scores in school exams in my adolescence. By doing so, I was praised by friends and teachers, and without any consideration, I internalized the principle that it was good to do good at school. (My parents never told me to study.) Different from regular adolescents, I didn’t worry about my dreams or look forward to the future, still less did I train to think about them by myself.


When I entered university, I was in a quandary about what to do under totally different circumstances. I did know what it is like to study, or to memorize something, but never knew what it is like to learn something spontaneously.


When I started job hunting as other students around me did, I found that the values I had embraced at school were not useful at all when it came to landing a job. I tried to imagine what companies wanted me to say at interviews, and I managed to get a job at one of the biggest banks in Japan. You may not believe me, but I entered the bank mainly because I thought it was a big enough company that my school’s graduates were supposed to enter and partly because I had studied economics at university.


I did not imagine what I would be doing one year later, or what I really wanted to do in the future. I just thought, “Well, I don’t dislike studying economics, so it won’t be bad doing some investigative reports.” I was wrong. I was disenchanted with the monotonous office work, the absolute business hierarchy, and the corporate rat race of money, money, money. I was diagnosed as depression. I tried, but I couldn’t continue to work.


Is the angst I am ridden with due to smoldering anger existing in my inner self? If so, can I somehow let it go? And next, will sorrow come? The “I” in Haruki Murakami’s novels would open the door to “my” inner self with the keys of sex or bloody violence. But this world is different from his. This is the reality and the only world for me. Can I revive and reinvent myself, with such a narrow world view and limitedly-internalized principles?


Anyway, it was a lot of fun drinking with the friend. Thank you!!

Wednesday, January 03, 2007

New Year's Resolutions

2007年は実りある一年にしようと、昨日(1月2日)は朝から駅前のカフェに行って、コーヒーを飲みながら、買ったばかりの小さなノートブックに10ページくらい新春の所感を書きました。頭に次々と思い浮かんでくることをノートに書き留めていっただけなのだけど、真っ白なページがブルーブラックのインクでいっぱいになるにつれて、少し充実した気持ちになることができました。

読み返すと気恥ずかしい箇所もあるけれど、いつもは消えていく思考プロセスが紙に残るのは新鮮な体験でした。

要点は、
・ 自分に自信がないから、肩身の狭い思いをすることが多い。せめて努力だけは自信を持つようにする。
・ 努力は、現状と目標を把握して、具体的に、継続的に。
・ 気分が沈むときも、それを受け入れる。行き場を失ったエネルギーを「いい形で」出せるように工夫する。
・ だらだらしない。
・ 構ってくれる人に感謝する。
・ 行動をorganizeする。頭の中だけでなく、紙とペンを使う。

今年は、自分や自分の周りの環境を変えたい。充実した気持ちで一年を終われればと思います。

今年も仲良くしてください。


I made New Year’s resolutions at a café near the station on the morning of January 2. Putting any idea occurring to me in a brand-new notebook in blue-black ink refreshed me.

I feel awkward when I reread some of them, but I believe that it will be helpful.

From the notebook
・ In 2006 I sometimes felt uncomfortable because of my incompetence and laziness. I will increase my self-esteem by doing my best.
・ I will set specific goals and make efficient efforts to achieve them.
・ I will accept my own feelings anytime and never let myself down. When I feel depressed, I will try to find the way in which my smoldering energy can be harnessed.
・ I will not waste time.
・ I will be wholeheartedly grateful to everyone who likes and worries about me.
・ I will organize my actions, using not only my mind but also a notebook and a pen.

I will change myself and the world around me, satisfied and proud at the end of the year.

Wishing you all a prosperous New Year.

Taku

Monday, January 01, 2007




Happy New Year!!

明けましておめでとうございます。生まれて初めて、初日の出を見にいきました。とってもきれいで、神々しくて、心底感動しました。 ことしはいい一年になりそうです。僕も、皆様の幸せを祈っています。いい一年にしましょうね。



I saw the first sunrise of the year for the firsit time in my life!!! These are some of the photos I took this morning. My friends and I got together on New Year's Eve as in other years, getting tipsy at a local karaoke bar. We went to Suma Beach to see the first sunrise. It was beautiful, heavenly and solemn. I was really impressed and I renewed my resolution for 2007. I wish you all a prosperous and happy New Year!!!

January 1, 2007

Taku