Monday, December 17, 2007

信仰について

最近、尊敬する二人の女性の友達と、彼女たちの信仰について話をする機会を持ちました。1人は日本人で、日本の比較的新しい宗教を信仰している人、もう1人はシンガポール人で、仏教の一宗派を信仰している人です。

僕は、自分の信仰の立場について話すときは、”agnostic”(神の存在については人知では語りえないという立場)であると言うことにしています。(ちなみに、英語で「無神論」というのはatheismというのだけれど、これはかなりショッキングな響きを持つ言葉です。)僕は祈ることもないし、超自然的な力の存在を信じることもほとんどありません。なぜ世界が存在して、「私」が存在するのか、英語には、intelligent design(偉大な知性による世界の設計)という、幾分宗教色を薄めたような概念があるけれど、世界を設計したその知性はどこから生じたのかという当然の疑問から、僕はそうした立場にはむしろ否定的な立場を貫いてこれまで生きてきました。

しばしば落ち込み、迷い悩む僕のことを親身になって心配してくれて、彼女たちは自分の信仰について語ってくれました。二人とも、芯があり、精神的にも強く、善く生きているように感じました。とても印象的な対話でした。

科学の発展が多大なる果実をもたらし、物質的な必要性が満たされるにつれ、宗教は世界を説明する手段としての力を失い、政治や教育の現場から切り離されてきました。物質主義が勝利した現代では、多くの人は、とりわけ日本人は、科学のもたらした恩恵に浴しながら、宗教を敬遠し、高度資本主義社会の中での立ち回り方を器用に身につけていきます。でも、宗教がなかったら、苦しみ、迷ったとき、どこに心の拠り所を求めたらいいのだろう。科学的思考の帰結が、物質主義とニヒリズムであるとしたら、どうやって生を肯定したらいいのだろう。鼻白むような自己啓発本が次から次へと出版されているのは、まさに「藁にでも」すがりたいような現代人の迷いを象徴しているように感じます。

どんな質問でも無下に扱うことはないと語る、仏教を信仰するシンガポール人の友人に、reincarnation(輪廻転生)について質問しました。輪廻転生の概念は、科学的世界観と明らかに矛盾する。証明することもできない。それをどうやって受け入れることができるのですか、と。彼女は、「確かにそれは科学的世界観と相容れない。私は、50%は信じて、50%は信じていない。ただ、これまで二度、オランダと日本で、これまで見たこともないものに強烈な懐かしさを感じたことがある。それが、私が50%、輪廻転生を信じている理由だ」と答えてくれました。

宗教に全く関心のなかった僕ですが、最近、それが、生きるための軸と知恵を提供するものとして見直すようになりました。宗教で客観的世界のあり方を説明しようという試みは、近代以降挫折してしまったように僕には思われるのだけれど、私=世界、あるいは「脳内現象」であるところの世界とうまく付き合っていくための慧眼は、科学だけでなく宗教もまた、提供することができる。そんなふうに最近は感じています。