Sunday, August 21, 2011


 8月21日フジテレビ抗議デモ、ナンセンス。

 今日のお台場のフジテレビ抗議デモ、ジャーナリストの安田浩一@yasudakoichi氏によると、6,000人集まったんだって。
で、デモの様子を撮影した写真を見ると「韓流ゴリ押し やめろ」とか書いたプラカードを持って行進してるんだけど、もー、まったく意味が分からない。そのへんで発情してるネコでも、もう少し良識があるよ。(ニャァ?)

  1.  「イヤなら見なけりゃいい」と一部芸能人が言っていたけどその通り。「見ない」ことが即、「韓流」への反対票を投じることになるのだから。そもそも、民放局は、視聴者を広告主に売るビジネスなんだよ。(だからこそ、あなたたちはタダでフジテレビの番組を見て、文句を垂れることが可能なのだ)

  2. 「ゴリ押し」が意味不明。今では、他に選択肢が、げっぷが出て嘔吐するくらいにたくさんあるじゃないか。(おぇ!)僕を含め、今回の騒動で初めて、フジテレビがたくさん韓国のドラマを放送していたのかと知った人、それで自分のテレビ離れを実感した人は多いと思うよ。

  3. 「公共の電波を使っているから」というのも意味不明。「韓流」を放送することが、日本国内の公序良俗を乱したのか。アメリカの映画だってけっこう放送されてるんじゃないのか?複数の民放局がある中、1つの民放局が、「韓流」を多く放送することが公共の利益にそぐわないとしたら、それはなぜで、どうすれば改善されるのか?


 …結局さ、たとえば、あなたが、市役所に行って、食堂で民間委託の外食産業のパートのおばちゃんが作ったカレーうどんを食べました。美味くないです→『おれは』これが嫌いです→何より、原料の小麦粉が日本産ではない、あれ、韓国産ではないか!→あれ、メニューを見ると、かけうどんに、てんぷらうどんに、ざるうどんに、きつねうどんに…ここの食堂、うどん多すぎ!→『公益に』反する、デモをして抗議をしなければ!!…くらいの話でしょう。あなた方は、今日は礼儀正しかったらしいけれど、その知性の低さは、公共性にとって資するところは何もないです。(発情期のネコくらいに。6,000人もニャー、ニャー、騒がしいし。)

 そのカレーうどんが気に食わないのなら、他のお店で食べなさい。ただし、そのカレーうどんには一定数のファンがいて、利益も上がっていることを忘れずに。日本の老舗の、原材料に国内産のものだけを使っているところを応援しなさい。(ネットがあるからタダで広告できるし。)あるいは、自分でうどんを捏ねてもいいし、それが大変ならば、もう少し簡単な料理を、好きな材料だけで作り、食べなさい。

                               J CASTニュースのウェブサイトより写真を転載

 You shouldn't say it is not good. You should say, you do not like it; and then, you know, you're perfectly safe.
(「良くない」とは言わないほうがいい。「私は好きではない」と言う方がいい。そうすれば、ほら、全く安全だから。)
(James Abbott McNeill Whistler (1834 -1903))

Saturday, August 06, 2011

竹田青嗣『自分を知るための哲学入門』 書評


 「哲学」とは、自分や世界の深淵を覗き込むことができる、高尚な知的営為に違いない、そんな予感から、僕は、高校生の頃には、「哲学」というものに漠然とした憧憬を抱いていたように思う。大学に入学した年に初めて買った哲学書は、カントの『純粋理性批判』であり、経済学の講義で一部分だけが試験範囲になった、マルクスの『資本論』の第一巻だった。それまで、大した読書経験がないのに、自惚れだけは強かったから、日本語で書かれ、長く読み継がれ名著とされてきたこれらの本にまったく歯が立たなかったことに少なからずショックを受けた。後になって、こうした本は独力で読むには、まして高校を出たばかりの18歳の子どもが読むには難しすぎるのであって、指導を受けたり、解説書を傍らに置きながら、仲間たちと協力し合って、長い時間をかけて読むものだということを知ったのだが、いったん「哲学書は極端に難しい」という意識を植え付けられてしまったためか、最近まで、哲学書には、劣等感と憧憬とが入り混じったような変てこな気持ちで接していた。

 大学を出てからは、精神科医が書いた大好きな本の中で何度もニーチェからの引用があったり、興味に迫られて読んだ本の議論が、例えば、J..ミルや、例えば、ボードリヤールや、例えばベルクソン、例えばフーコーなどの思想を基盤としていたりというようなことがあって、いつしか「哲学」は、「いつかはきちんと読まなければならない」という、先延ばしの悪癖のある僕の前に、いつもそこにある宿題としての地位も占めるようになった。

 哲学書だけは買ってあって、なかなか手に取ろうとしない怠慢な僕が、ふと本棚の奥に、昔買ったこの本が眠っているのを見つけて手に取ってみたのは、このような先延ばしに自分でもうんざりし始めてきたときだった。

 この本がユニークなのは、最初の90ページをも使って、僕が上に書いた、哲学書を読むのに逡巡しつつも、憧れだけはどこかでくすぶっている、「あの思い」を、著者が、著者自身にも共通する思いとして、自身の人生体験と重ね合わせながら誠実に綴っていることだ。これだけで、僕はもう魅せられた。

 その後の解説は、ソクラテスやプラトンがどういった意味で独創的だったのか、デカルトやカントが、どのような意味で重要な哲学者であるのか、著者が専門とするフッサールらの現象学とは何か、ニーチェやハイデガーの思想は、それまでの思想の何に反駁したのか、現代思想の抱えるアポリアとは何か…というようなものだ。著者自身が心がけたというように、それらは(知的な読書を妨げない程度に)できるだけ平易に記述されていて、一読すると、哲学は2000年以上も、同じような問題を(たとえば主-客が一致するかどうかという問題などを)原理的なレベルでずっと考え続けてきて、時折現れる大哲学者に問題をひっくり返されてきたのだな、ということがよく分かった。また、例えば、カントやニーチェやフッサールなどの思想の独創性や意義も(この本に書かれてある範囲で)よく分かったが、もし、原典を読む際に、彼らが、それまでの哲学で常識であったどのようなことに説得的に異議を唱えたのか、という歴史的背景の知識がなければ、やはり読んだり理解するのは苦しいだろうな、とも思った。

 現代思想ですぐに読みたいなと思っている本は何冊かあるのだが(特にニーチェとボードリヤールの著作)、竹田の他の著作から、基本的な背景知識を勉強しながらの併読となるかもしれない。平明で興味深い解説書であると同時に、哲学を愛する著者の息吹が聞こえるような、哲学の初学者にとって格好の著作であると思う。



ミラン・クンデラ 『ほんとうの私』 書評


 以前『存在の耐えられない軽さ』と『不滅』を読んだ僕にとっては、この作品はクンデラ3作目となる。本作はハードカバーの翻訳で200ページほどの小品で、前2作が世界文学の中で燦然と輝く大傑作なのに比べると、やや目立たない印象があるかもしれない。それでも、僕は、この作品を非常に丁寧に書かれた、奇妙で、とても面白い小説だと思った。

 原題は、L’identité (『アイデンティティ))。広告会社に勤める、老いの徴候が現れ始めた女性を軸に物語は展開する。彼女と同棲する経済力のない年下の男が奇妙な手紙(匿名で、「私はスパイのようにあなたの後をつけています。あなたは美しい、とっても美しい」と記した手紙)を、彼女にそっと届けたのだが、彼女がそれを自分の下着の中に隠しておいたこと、彼女が次の手紙を楽しみにするようになったことで、彼女は彼にとって、もはや以前の彼女ではなくなってしまった。それは、同時に、彼女自身のアイデンティティが揺らぎ、ますます不確かになり、変質し、最後は崩落の危機に陥ることであった。物語は、アイデンティティの支えがない、もはや現実と幻想とが交錯した場所で終焉を迎える。

匿名のストーカーじみた手紙を受け取り、心ときめいて箪笥のブラジャーの中に隠しておく中年女性は、言うまでもなく、滑稽だ。これは、この作品の中でもあくまで1つの例に過ぎないが、「滑稽」というのは、クンデラの小説を形容するのに、しばしば適切な語だと思う。それは、生と性の哀しみを内包した滑稽さであり、「それでもなお」悲痛に生きていくわれわれを包み、闊達に笑うような滑稽さだ。