「物語」・物語の話
自分を取り巻く世界が、恣意的な物語ではないかと感じるときがある。
偶有性に満ちた歴史的な文脈の中で、人間はさまざまな「物語」を生み出してきた。神が世界を創造したという聖書。何人もがコモン・センスをもち、政治的権力を行使し得るという民主主義。「見えざる手」があるという思想の下、資本家が労働者を商品として購入することで無限の利潤拡大が可能であるという資本主義。その他、さまざまな社会的慣習。 これらの「物語」は、人間の、(「無意識」ではなく)表層的な理性にその基礎を置く。創世記は、世界の成り立ちについて説明せんと欲する人間の理性によって創られた。民主主義は、人間が理性的存在であることを前提としている。資本主義は、理性から発生する、後天的な欲求である、利潤の拡大を目指している。社会的慣習は、多くの場合、これらの「大きな物語」に付随して、各々の社会が生み出した偶有的な産物である。
理性によって編まれたこれらの「物語」は、しかしながら、フロイトのいう人間の「無意識」をも、統御し、規定する。その「無意識」の統御や規定が蹉跌したり、人がそこからの逸脱行為を求めようとする場合に、鬱をはじめとする所謂「精神病」が起こるのではないだろうか。そして、ミシェル・フーコーが『狂気の歴史』で喝破したように、近代においては、「一方には理性の人が存在し、狂人にむかって医師を派遣し、病気という抽象的な普遍性をとおしてしか関係を認めない」。
こうした、社会学的な意味合いにおいての「物語」に加え、作家の生み出す、字義通りの物語がある。優れた物語もまた、人間の「無意識」を揺さぶる。物語を読んで得られた深い感動の理由をことばにするのにしばしば困難を感じるときがあるが、それは、われわれにとって、「無意識」を語ることが困難であるせいではないだろうか。その意味で、「無意識」という井戸で物語を紡ぐ作家は、稀有な存在だ。
こうした関心から、今、ジョーゼフ・キャンベルの『神話の力』を読んでいる。「物語」あるいは物語は、人間の内面にどう働きかけているのか。あるいは、なぜ、人間は、「物語」あるいは物語を生み出し、そのことによって内的世界の変更を自らに迫るのか。それが知りたいと思う。
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