Tuesday, April 12, 2011

末木文美士 『仏教 vs. 倫理』 書評―というより多少の雑感


 私は父を14歳の初夏に亡くした。子煩悩で短気な父であった。実の父であり、育ての父であるのだから、(ことばにならないものも含めて)思うところはさまざまにあるのだが、こうやって何かを書こうとすると、躊躇せざるを得ないことに思い当たった。これは、私にとって、大きな発見だ。なぜか。


私は、信仰をもたない人間である。訊かれれば”agnostic”(不可知論者)と答えなくもないが、無神論だと言ってもさほど自分の思想と齟齬があるようには思われない。ただ、そうは言っても、親しい誰かを亡くしたときに悼み、時折死者を思い出さぬほどに血の通わぬ人間だというわけではない。死者には敬意を払い、思いを馳せ、ときに畏れることもある。いくら無宗教を自認している人間であろうと、この感覚は共有していると思う。これは、宗教が扱う根源的な問題だ。もっとも私はそれを、人間の原初的で原始的な本能か何かだと捉え、宗教のように体系的に整理して考えてこなかっただけだ。

この本を読んで一番はっとしたのは、(著者には失礼であるかもしれないが)『死と狂気』という、渡辺哲夫という精神病理学者の著作を引いた箇所であった。渡辺は、重篤な統合失調症の患者が、死者を死者として引き受けられていないことを指摘している。それはつまり、彼らは、死体を知覚するのではあるけれども、他者としての死者に出会っていない。そこに狂気が生じるというのだ。渡辺は言う。「記憶としての死者と存在する死者を二種の異なった考え方として同じ次元に並置することなどできない。死者の存在、存在する死者こそ絶対的かつ先行的な事態なのである」(本書p.192, 渡辺p.79

この箇所を読むまで、私は漠然と死者とは生者の記憶の中にこそ生きるものであると感じていた。しかし、おそらくそれは誤りだ。冒頭、私は亡くなった父のことを書こうとして、複雑に入り組んだ個人的な思いを、インターネットで公開することをためらった。それは、私に父の記憶があるからではなくて、死者としての父が「他者として存在している」からだ。父は死者であり、現前しない、何も語らぬ存在である「にも拘わらず」、行為しようとする私に、「おれを冒瀆するな」と言わんばかりに、他者として私に対峙していたのだ。私が生きているうちに出会ってきた、あるいはこれから出会う他者と同じように、父を含めた死者は私の生において他者として存在し続ける。そして、私が死ねば、同様、私は死者という物言わぬ究極の他者として、私にとっての他者の他者になるに違いない。それは、渡辺の言うように、生者の記憶とは別の地平における存在なのだ。

死者は、生者を超越した「場」に存在する。こう考えれば、生者が生きる世界の構造―言語を含め、そのほとんどは無数の死者からの時を超えた贈り物だ―のいくつかに良い説明が与えられそうだ。その1つが、生まれる前の世代の戦争や虐殺の責任だ。世代を超えてわれわれに重く圧し掛かってくる責任を払い除けられることができない端的な原因は、死者が鎮魂されないままに「存在している」からだ。




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