Sunday, March 27, 2011

『オリバー・ツイスト』Oliver Twist (2005) 映画評


 19世紀イギリスの生んだ文豪、チャールズ・ディケンズ原作の小説の映画化。原作を読んではいないが、当時の少年、孤児たちが置かれた劣悪な環境を告発するという、啓蒙的な意味合いも含んだ作品であったという。

奴隷のように労働させられる子どもたち、盗みに手を染める子どもたち、そうした彼ら、彼女たちを利用する醜悪な大人たち、こうした構図は、全くとは言わないまでも、われわれの生きる現代社会とは大きく異なるものだ。それでは、ディケンズが、彼自身も身を置いた当時の悲惨を告発した意義は、今日にあっては無意味か。彼の文学的企みは空振りか。そうではない。

原作は読んでいないので、この映画についての言及であるが、古典的な小説らしく、「善」の側に位置づけられた人間と、「悪」の側に位置づけられた人間との対照は明瞭ではあるのだが、「悪者」である組織の人間たちにも、積極的に彼らなりの善なる人間性、心の痛みが与えているのは印象的であった。たとえば、盗人の集団のリーダー格の老人、フェイギンが、かつて仲間であり今は失われた、スリの子どもたちを(その盗品を通して)懐かしむシーン、あるいは、グループの一味になってしまった運命を悔いる情婦が、声を荒げて自らの運命を呪い、幼く無垢なオリバーだけはと庇うシーンなど。

(以下、映画のクライマックスに触れます)




映画のクライマックスで、恩着せがましい盗人ではあったが、食事の世話をしてくれたフェイギンが死罪になるにあたって、刑務所の中で錯乱状態にある彼に、幼いオリバー自ら会いに行くシーンは印象深かった。人が生きていくとき、人と死別することは避けられない。10歳のオリバーには過酷であったのかもしれないが、狂い、死にゆく(死罪になる)老人との面会は、無垢な善意を持ち合わせただけの、未熟な自我のオリバーが、大人になるための通過儀礼であったのかもしれない。

現代の私たちが物語の中に見出せるのは、人を翻弄する運命、人間の醜悪さと善、そして、その不確かさだ。主人公のオリバー・ツイストは、過酷な運命を乗り越え、ハッピーエンドを迎える少年である。しかし、われわれにとってのこの物語の現代的な魅力は、少年オリバー・ツイストが結局「あほらしいほどに」幸福になる「にもかかわらず」、彼を捉え、抗うことを許さないような残酷な運命や「悪魔の囁き」もまた可能性としたあったことに想いを馳せてみること、あるいは、「悪」の一味がじっさい悪者であったのは、必然ではなく偶然であったかもしれない、つまり、彼らは、まるで振り子の揺れを途中で止めてしまうように、紙一重で悪人の側に置かれてしまったのではないかと考えてみることにあるのだと思う。


No comments: