Thursday, March 31, 2011

諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』書評

 
 僕が深い魅力を感じる人は例外なく、他者が立ち入ることを許さない内面世界を保っているように思える。それは、深海のように謎めいているのに、ある種の威光のように彼/彼女に対する人に畏れを抱かせる、何かだ。本当の意味での愛がどのようなものかは僕にはまだ分からないが、少なくとも、本当の意味での他者への敬意は、この畏れに基づくものではないかと感じる。

 この立入り禁止の空間は、他者との交流の刺戟によって豊潤になるのだが、それを護るのはじぶん独りである。これは、本書を手に取る人ならば、承知の事実であると思う。ところが、現代の日本において、この空間を護るのは容易でない。「世間」の「空気」や風土や時代を批判するのはあまりに容易なのに。

 本書はこの実践において、トランス・パーソナル心理学のカウンセラーの観点から、実に有益な示唆を与えてくれる。本書最終章で紹介される、身体感覚を研ぎ澄まし、内面の声を聴く「フォーカシング」と呼ばれる手法がそれだ。この、自身との対話によって、一次的な自己である〈私〉は、超越的で普遍的な〈私〉へと開かれるという。私自身、本書を読むことで、日常の気忙しさからしばし解放され、自分と深く対話する契機を得られた。これは収穫だ。しかし、私自身は本書の主張すべてを肯う立場にはない。

 もっとも違和感を抱いたのは、本書第3章で、キリスト教の説く隣人愛についてのキルケゴールの解釈を引く箇所だ。キルケゴールによると、「汝、隣人を愛せ」という命令は、特定の人を愛してはならないという禁止だという。そして、著者は、そうした「普遍的な」愛を、われわれが抱く個々の愛に優越したものだとする。しかし、私はそのような「普遍的な」愛などおめでたい話だと考える。人を遍く愛しているとは、畢竟誰も愛していないのと同義である。

 かつて、社会学者の見田宗介は、人生の真の喜びも真の絶望も、他者との関係の中に存することを指摘した。人生の真の喜びとは、その人に固有の愛であり、真の絶望とは、絶対的な孤独に違いない。そもそも私たちは、具体的な他者から〈他者〉として承認されることなしに、生きていくどころか〈私〉として存在することもできないのだ。

 著者は、こうした具体的な他者に、具体性を与えることに成功していないように思える。「孤独」について語ろうとするあまり、その反対側の他者の概念を疎んじてしまった。本当は、他者についての問題もまた、筆者も含め、誰もにとって切実なもののはずなのだ。

 今日ますます、じぶんひとりの内面世界を護り、育むことは難しい。ほんとうはもっとひとりになりたい。もっと深く内面を追究したい。これは、私にとっても切実な要望だ。しかし、私の人生の中に〈他者〉がいてはじめて、私の人生は意味を帯びる。この辺りの按配が難しいのだ。



4 comments:

nao said...

最後の段落に、深く肯きました。
私もこの本、読んでみたいと思います。
どうもありがとうです。

said...

ありがとう!!!こちらこそ、naoさんのブックレビュー、映画のレビュー読みたいなと思っているんだよ!!ネットに公開することも考えてみてね♪

エハガキ華 said...

「畢竟」という言葉を覚えました。
ありがとう。^^

あとこれのひとつ前の「生きる」の
映画評が面白くて興味をもったので、
探して見てみようと思う。

茨城のり子さんの詩集も読んでみたい。
地震のあと図書館が閉館していたけど、
今月からまた開館してるらしいから
借りてみよう。

Taku said...

わぁ!!嬉しいコメント!!ほんまにありがとう。『生きる』はたぶんどこのレンタルビデオ屋さんにも、そしてAV機器がある図書館ならどこでも置いてあると思うよ。ぜひぜひ観てください!!!

茨木さんの詩もすてきやで。『汲む』とか読んでみて!

ブログを読んでもらっているというだけでもとってもはげみになるね~。