Wednesday, February 23, 2011


『マンハッタン』(Manhattan)映画評



冒頭、この作品の監督兼主人公であるウディ・アレンは、不思議な宣言をする。


彼はニューヨークに惚れこんでいた。ロマンティックな感情を抱いていた。

けれども、彼はそこでニューヨークがどんなに素敵で魅力的な街であるか語るのではない。まったく逆に、ニューヨークがろくでもない街だ(現代文化の腐敗の隠喩!)と断じるのだ。彼は何度もことばを変えながら、「説教臭い」とか「これじゃ売れない」とか、どうやって自分の感情を宣言してやろうかと逡巡するのだが、いずれにおいても、彼はこの二律背反の宣言をする。そうやって、この映画は始まるわけだ。

主人公は42歳で2度の離婚を経験、年相応の哀愁はあるが、情けないほどに子どもっぽく、それが可笑しくもある。自分の美的感覚に絶対の自信をもっていて、知識をアクセサリのようにひけらかす人間を胸糞悪く感じる。その嫌悪は、(多くの「嫌悪」というものがそうであるように)自分と似た特質をもつ人間に抱く嫌悪に映らないこともない。だから、結局、彼は自分と同年代のそういうタイプの女性に惹かれてしまうわけだが。

彼のそうしたアンビヴァレンスは、冒頭に宣言されたニューヨークへの愛憎半ばする感情と重なる。自己愛や他者への愛は、ある場合にはそういうものなのかもしれない。

とにかく、彼は哀愁漂う、中年のピーター・パンのような男で、17歳の美しい女性と付き合っている。彼女は、彼を愛している。演劇をやっていて、その分野でも才能を開花させつつあり、さらに人を愛することにも一途だ。若くて美しい。でも、彼は本気ではないし、覚悟もない。それなのに、彼は彼女と関係をもちながら、だらだらと中年のインテリ女性とも関係を持つ。

彼が最後に選ぶのは、自分と似たものへの嫌悪の反転としての愛ではなく、自分にないものへの憧憬としての愛であった。若く、愛と希望に一途な女性であった。主人公にとっては不確かな希望を残して終わるこの映画は、或る人生の縮図のようだった。

もし僕が彼ならば、哀しみと満足感に充たされながら、「これでいい」と言うだろうから。




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