Thursday, January 27, 2011

『気狂いピエロ』("Pierrot le Fou")映画評


結婚している男と、かつての男の愛人の女との不倫と逃避行を描いた、ジャン・リュック・ゴダールの1965年の作品。美しい構図が印象的で、場面場面に応じて工夫された色使いと光のコントラストが駆使されている。どの場面も美しい一枚の絵のようで、この映画を観ていると、美術館の絵の中の愛し合う男女を、あるいは夏のフランスを、コマ回しで見ているようだ。――煙草をくゆらす男、フランスの緑の木々と、その中を歩む男と女、陽光を受けて輝く海面。モーツァルトを流しながら二人が走らせるオープン・カー、砂埃、青い海に浮かぶ白い船。顔に絵の具を塗った、哀しく滑稽な「気狂いピエロ」――。
男はフェルディナンという名前がありながら、女からは「ピエロ」としか呼んでもらえない。男はその度に自分の名で訂正するのだが(哀しくて滑稽だ)、最後まで女から固有名で呼ばれることなく、したがって男はピエロでしかありえなかった。煙草をふかし、抽象的思弁に「生きる」男は、女が意味するところの人生を生きる男ではなかった。あるいは、女は、男に理解できる存在ではなかった。それぞれの半ば詩的な独白は、互いが理解しあうことの不可能性を確信させる。
 これは男性的な見方かもしれないが、思わず「セ・ラ・ヴィ(それが人生だ)」と同意したくなる。もちろん、この作品はひとつの極端な男女関係を描いているのだが、逆説的にもそのことを通してこそ、普遍的で本質的な部分を提示しているのだ。哀しく、美しく、そして少し滑稽なこの映画は、ゴダールが、映画という極端によって、抽象的観念かつ具体的現実である「人生」について、その両極をそれぞれ男と女に背負わせることで、ほんの少しでも普遍化しようとする試みであったのかもしれない。



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