Sunday, January 02, 2011


初日の出

彼女が口をきかなくなってから3日になる。この3日、私は、彼女の気を引こうとふざけた冗談を言ってみたものだが、まるで相手にされなかった。何年も一緒にいるから、彼女が気分屋だということは重々承知だが、年の瀬で周りが慌しいときであったから、彼女の沈黙はいっそう深いものだと感じた。石を投げたら、ぽちゃんと音がするのに少なくとも5秒はかかるかもしれない、と思った。

大晦日になっても、彼女の無口は治らなかった。私は、夜の11時を過ぎてから、二人分の蕎麦を作った。テレビをつけると、テレビの中のケラケラという笑い声がひどく不謹慎なものに響いたので、私は慌ててテレビを消した。部屋は静まり返った。二人は丼ぶり鉢で両手を温め、スープをすすり、ずるずると蕎麦を食べた。時計は、11時30分を少し回ったところだった。
「初日の出が見たい」
と彼女は言った。いいよ、じゃあ、今から出かけよう、今日はずっと電車が動いているからと私は言った。二人は、ジーンズに足を突っ込み、セーターをかぶり、ダウンジャケットを羽織った。彼女は、白いニットのマフラーを巻いて、白いニットの手袋を身につけた。首元がもったりと温かそうだった。

 私たちは、アパートを出た。鉄の扉が、いつもよりも冷たく重かった。ガチャリと鍵を回す音が大きく響いて、私はぎょっとして辺りを見回した。誰もいない。いくつかの窓には灯りがついていたが、人の声はまったく聞こえない。彼女は、鍵を閉める音など気にもかからないというふうに、夜の底で白く温かい息を吐いていた。

 プラットフォームは人でいっぱいで、熱気と笑い声で満たされていた。数分おきに到着する電車が人を飲み込み、階段からは別の人々が次々とその隙間を埋めていった。私は温かい缶コーヒーを飲んで、煙草を吸っていた。彼女は、温かいココアを飲んでいた。二人はプラットフォームの別々の場所で、温かい飲み物を飲んで白い息を吐いていた。二人が一息ついて乗った電車では、向いどうしの席に座ることができた。彼女はすぐにハンドバッグの中から谷崎の『春琴抄』を読み始めた。彼女が本を読んでいるときには、話しかけてはいけない。どんな女性と付き合うときにも、不文律がある。彼女が私に対してどんな不文律を守ってくれているのかは分からないが、彼女も彼女なりに私に気を遣ってくれているのだ。私は、イアフォンをあて、眠くもないのに目を閉じて眠ったような格好をした。ふと薄目を開けると、彼女はまだ同じ小説を読んでいた。腕時計の針は0時25分を指していた。今年も、いつ年が明けたのか見当がつかない。

 三ノ宮が近くなってきたとき、私は彼女に初詣に行きたいかと訊いた。そうだね、行こうかと彼女は言った。三ノ宮駅は、ラッシュアワーのような人ごみだった。若い人たち―私たちより少し年下に見える人たち―の中には、着物を着ている人もいたが、たいてい似合っていなかった。でも、皆例外なく明るく、年明けくらいは仲間たちとはっちゃけたいというようだった。私は彼女の手をとった。白い手袋の上から感じる、脆く小さな手は私の胸を打った。柔らかな手だが、確かな骨の感触と温もりがあった。私はそこにいる彼女を想うと胸が詰まった。彼女を愛していると思った。人ごみは賑々しく、冬の空気は人々の吐く白い息で温められていた。

神社の境内は人でごったがえしていて、ほとんど前に進めなかったので、私たちは、参拝をあきらめた。でも、私たちは人ごみをすこしはずれ、神社に向かって頭を垂れ、手を重ね目を閉じて祈った。屋台でトウモロコシを2つ買った。神さまに何をお願いしたのと訊くと、彼女は何も言わずにトウモロコシにかぶりつきながら微笑んだ。とてもきれいな微笑みだった。2時30分だった。少し早いけれど、須磨の海岸に行こう、あっちで焚き火を熾して温まればいいよと私は言った。

須磨はまだ真っ暗だったが、すでに初日の出を待っている人の姿があった。遠くには焚き火が見えた。私は、湿っていない木切れを探して歩いた。冬の海岸は底冷えする。彼女の歯がカチカチと鳴るのが聞こえた。彼女を待たせてはいけないと思った。すぐに調達できた木切れを重ね、新聞紙を丸めたのに火をつけて放り込んだ。火は、生命を得ることなく消えてしまった。何度やっても同じだった。私は焦った。彼女が、二人で木を探しに行こうと行った。それで、私たちは暗い海岸を、小さな林を歩き(静寂の中で、二人の歯の音がカチカチ、カチカチと鳴った)、小さな木切れから太い木切れまでを二人それぞれが両手で抱えるくらいに集めてきた。

彼女が、木を積み上げた。細い木と太い木が折り重なって、ちょっとした建造物のようだった。彼女が小さな手で新聞紙に火をつけたのを木の中に入れると、煙が立ち、火が熾った。火はぱちぱちと音を立てながら、木々を崩し、力強い生命となった。彼女の顔が、オレンジの光の中に浮き上がった。彼女は「焚き火は簡単じゃないよ」と言って笑った。そうして、手袋をした両手を火にかざした。私も笑って、焚き火に両手をかざした。群青色の空が、夜明けが近いことを告げていた。

海から、太陽がそっと現れた。太陽はぎらぎらと燃えていたが、光は柔らかかった。ゆっくりと確実に、太陽は昇っていった。まるで生きているようだった。古代から太陽が信仰の対象になったのが分かるような気がした。太陽は今日も、光と温もりを、このろくでもない世界に与えるのだと思った。

「赤ちゃんができたと思う」と彼女が言った。私は息を呑んだ。そっと彼女のお腹に右手を当て、次いで、左の耳を当ててみた。「まだお腹がぺったんこだから、いるのが分からないよ」と私は言った。「ゆっくり大きくなるの。確かに、ここにいるのよ」と彼女はお腹の上の私の手を握って言った。温かい金色の光が、二人と新しい命を包んでいた。

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