Friday, September 19, 2008




ママはイラクへ行った


昨日、日が変わって、遅い夕食を食べながら何気なくTVをつけたら、NHKで、『ママはイラクへ行った』と題されたドキュメンタリーが放映されていた。アメリカ軍はイラクなどに、総兵力のおよそ11%にあたる19万人の女性兵士を送り込んできた。その3分の1は子供を持つ母親兵士だという。

http://www.nhk.or.jp/special/onair/080915.html



番組では、イラクから帰還後、PTSD(post-traumatic stress disorder; 心的外傷後ストレス障害)に苦しむ26歳の女性が紹介されていた。イラクに派遣された彼女は、現地で、笑顔で手を振って近づいてくる少年に出会った。彼女が応じようとしたその途端、その少年は彼女に銃口を向け、発砲してきた。彼の命か、自分の命――彼女は、ほとんど無意識に、その少年を銃殺した。

後に、その少年は、まだ12歳であったことが判明した。彼女は、彼を銃殺したことで、深刻なPTSDに苦しむことになる。強い不安、パニックの発作。彼女はアメリカに帰還してから、彼女の症状に理解を示してくれる男性と出会い、子どもを作った。子ども――彼女は、イラクで、12歳の子どもを殺した。自分の産んだ子どもが、自分がイラクで殺めた子どもに重なる…彼女は、どうしても、自分の子どもに愛情を注ぐことができない。1歳の自分の子どもに、ささいなことで苛立ってあたる彼女の映像が流れる。治療だけが一縷の望みなのだと彼女は涙にくれる。

子どものためにと、彼女と彼女の夫は、現在離婚協議中であるという。

……


この番組を見て、真っ先に生じた感情は、「困惑」であった。


アメリカという狂気。アメリカとは、行動論理を持った1つの主体である。それでは、アメリカという主体を、個人という最小単位の主体に還元することはできるであろうか。それは、できない。国家とは、行為する主体であると同時に、個人または法人という主体を巻き込む複雑で流動的な機制でもある。

アメリカが、イラクに戦争をしかけたのは、そうしない場合よりも効用が高いと判断したからだとごく簡単に説明されることがある。それでは、アメリカとは誰であり、その効用(多くの場合、「国益」ということばが使われる)は誰に帰属すると想定されているのか。全国民がそれに浴することができるのか。(そんなはずはない。すでにアメリカ軍だけで数千の戦死者、数万の負傷者がでている。PTSD発症者の数は、それをさらに上回るはずだ。彼ら彼女たちの多くには、家族がいて、友人がいる。)それでは、ある特定個人の集団に帰趨する効用か。その効用は、適切な方法で分配することによって、純粋に個人の効用に還元できるか。また、その効用とは、中央銀行(FRB)の発行する、背後に実態的根拠をもたない価値指標である、ドル紙幣に還元され得るものか。さらに、ラカンを援用すれば、その効用とは、生存に不可欠な欲求(need)を満たすべきものか。与えられることのない何かへの要求(demand)を満たすものか。それとも、「他者の欲望への欲望」としての欲望(desire)を満たすものか。

戦地で非業の最期を遂げる兵士、負傷する兵士、戦地から帰還してからもPTSDのために苦悶する元兵士たち「個人」の負の効用は、計量可能であるのか。それに勝る正の効用――「誰か」に帰趨されるべき効用――の創出の可能性が現実に存在し得、その獲得を予期して、アメリカはこの戦争を戦っているのか。

あまりにも巨大なもの――それは一面においては、1つのフィクションですらある――の行動論理の中で、「無意識」という、人間の最も個人的な世界に破綻が生じる…。

われわれは戦争を経験することはないが、この不思議は、意外にも、われわれの身近に蟠踞しているように思われる。そして、この不思議を発見するたびに、ひどく困惑させられる。

夜のしじまの中でそんなことを考えた。

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